紅 龍 の 夢   番外編:── BLUE MOON ──

       ◇第1回

 ◆∽‥────────────────────────────∽◆

 人界では幻とされているワルプルギス山、その頂上にそびえる巨木の下で、サマエル達が結婚式を挙げてから、はや六年の歳月が経ち、ジルは二十四歳になっていた。
 二人はまだ寝室を共にしておらず、子供は生まれてはいなかった。
 それでも、ジルは、夫を名前で呼ぶことにも慣れ、彼らは夫婦水入らずの、穏やかで心温まる日々を営んでいた。
 しかし、そんな平穏な日常にも、危機は音もなく忍び寄りつつあった。
 一月ほど前から、サマエルが常にぼんやりとして、自分の方を見てもくれなくなっていることに、ジルは気づいていた。
 ただ、夫がそうした態度を取ることは今までにもあったので、初めは彼女も、大して気に留めていなかったのだが、こうも続くとさすがに心配になる。
 ……自分はもう、愛されてはいないのではないか……。
 不安が頭をもたげて来て、彼女はそれを否定しようと、首を横に振るのが最近の癖になってしまっていた。
 その朝も、サマエルはぼんやりして、食堂に来ても、目の前に並んだ湯気の立つ朝食に手もつけず、ただ視線を宙に彷徨(さまよ)わせていた。
 ジルが周囲を見回しても、取り立てて注意を引くような物はもちろんなく、感覚を研ぎ澄ませてみても、何の異常も感じられない。
「ねえ、サマエル、どうしたの? この頃変よ。今も、何を見てるの?」
「……ああ、いや、別に何も見ていないよ、ジル……」
 夫は答えたものの、相も変わらず放心状態だった。
「そう、ならいいけど。早く食べないと、ご飯が冷めちゃうわよ」
「……済まないが、今はいいよ。ちょっと食欲がないから、後にする……」
 サマエルは立ち上がった。
「え? 昨夜もそう言って食べなかったじゃない、大丈夫なの?」
 思わずジルが立ち上がりかけると、夫はようやく反応を示し、彼女を身振りで制した。
「ああ、大した事はないから、気にしないでおくれ。 まだ眠いだけだ、ちょっと部屋で横になってくるから……」
「気にしないでって言われても……昨夜、遅くまで何かやってたの? ──あ、ねぇ!」
 呼び止める彼女の声は耳に入った様子はなく、サマエルはそのまま、ふらりと部屋を出ていった。
 昼食にも、夫は現れなかった。
“……ね、サマエル、起きてる? もうお昼よ”
 心配したジルは、そっと念話で話しかけてみたが、返事はない。
 もう一度声をかけようかと迷っていた時、サマエルの使い魔タィフィンが、申し訳なさそうに告げて来た。
“ジル様、お館様は、まだ眠っておられますので……”
“そう。じゃあ、寝かせてあげといた方がいいわね。起きたら教えて”
“かしこまりました”
 手持ち無沙汰にジルは一日を過ごし、やがて日が暮れて夕食時になっても、サマエルは、やはり部屋から出て来る気配はなかった。
“……ね、サマエル、起きてる? 具合が悪くても、何か食べた方がいいんじゃない? おかゆ作ろうか?
 おそるおそるジルは呼びかけてみた。
 ほっとしたことに、今度は返事が返って来た。
“いや、おかゆはいらない。大丈夫だよ、ただ食欲がなくて、ちょっと頭がぼうっとしているだけだから。 疲れがたまっているのかな、今晩ぐっすり眠れば、治ると思う……お休み、ジル”
“……そう。じゃ、無理しないで。お休みなさい”
 夫を心配しつつ、ジルは眠りについた。
 翌朝、サマエルは起きて来たものの、やはり食事を摂ろうとはしなかった。
「ね、まだ具合悪い?」
「……ああ、いや……」
 問いかけても、サマエルは茫洋(ぼうよう)とした眼差しのまま、ぼんやり返答をするだけだった。
「熱あるんじゃない?」
 ジルは彼の額に手を当ててみるが、いつも通りひんやりとしている。
「ないわねぇ……」
「……ああ、何ともない……」
 答えを返したものの、サマエルは、心ここにあらずといった様子だった。
 そして、その日を境に、彼は四六時中ぼんやりと考え事をし、まるでジルが見えていないかのごとく振舞い始めた。
 数週間がその調子で過ぎていき、こらえ切れなくなったジルはある日、夫を正面から見つめ、尋ねた。
「ね、サマエル、答えて。あたしのこと、嫌いになっちゃったの? ……それとも、ひょっとして、他に……? もしそうなら……それでもいいから、あたしに話して。ね? お願い」
 彼女がこれほど真剣に尋ねているというのに、サマエルは上の空で、声をかけられたことにすら気づいていないようだった。
「──ねえってば! 聞いてるの、サマエル! あたしを見て、ちゃんと答えてよ!」
 たまりかねたジルが、思わず彼の腕をつかんだその時。
「──うああっー!」
 いきなり胸を押さえ、サマエルは椅子から転げ落ちた。
「きゃあ、サマエル! どうしたの!? 胸が痛いの!? しっかりして、ああ、どうしよう!」
 ジルは焦り、激しく痙攣(けいれん)する夫の体に取りすがった。
「……う、う……ジ、ジル、大、丈夫だ……タ、タィ、フィン……来て、くれ……は、やく」
「わたくしはここに。いかがなさいました、お館様」
 どこからか、返事が聞こえた。
「ち、地下に……早く、私を、地下に……連れて、行って、くれ……」
 サマエルの使い魔タィフィンは常に透明化しているが、余人には見えないその姿が、魔眼には映っているのだろう、彼は、虚空(こくう)に向かって手を伸ばした。
「地下? 地下なら、わたしが連れてってあげるわ、サマエル」
 手を貸そうとする妻を、サマエルは振り払った。
「さ、触らないでくれ……キミは来るな……は、早く、タィフィン……地下へ……」
「かしこまりました。 ジル様、ご心配なく。わたくしがお連れ致します、お部屋でお待ち下さい」
「ジル、キミは、来ては、いけない……絶対、決して、地下には、来ないでくれ……」
 念を押すサマエルを、見えない手が抱き起こしたと見るや、彼の姿は消え失せた。
「──あ、サマエル、タィフィン、待って!」
 ジルの叫びが、がらんとした部屋に虚しく響いた。

        *         *          *

 それから、どれほど経ったのだろうか。
 いくら待っても、サマエルもタィフィンさえも、一向に戻っては来なかった。
 ジルはじっとしていられなくなり、部屋の中を行ったり来たりし始めた。
「……何があったのかしら、サマエル、どうして倒れたの……」
 彼女は、自分が独り言を言っていることにも気づいていなかった。
「最近、サマエルはずっと変だったわ、いつもぼんやりしてて、食欲もなくて……。 まさか、病気……? ううん、サマエルは前に、人族の病気には罹(かか)らないって……あ、そういえば!」
 彼女は掌を打ち合わせた。
 免疫力が高い魔族は、人界の病気にはほとんどの場合罹患(りかん)しないが、以前、この地方で、魔族と人族両方が罹る珍しい病気が流行したことがあった。
 ワルプルギス山のふもとの村にも病人が出たため、村長に頼み込まれて、サマエルが薬を作った。
 彼女は、それを思い出したのだった。
「そうよ、あの薬、ちょっと残ってたっ!」
 ジルは息せき切って、薬部屋に駆け込んだ。
 きちんと束ねて積み上げられた乾燥させた薬草や、様々な薬の匂いが交じり合う中を、ジルは棚の一つに突進する。
「そう、たしか、この辺に置いたのよね。 ……えっと……これじゃない、これでもない、これも違うわ……!」
 ずらりと並んだガラス瓶を、がちゃつかせながら捜すものの、一向に目的の物は見つからない。
「──もう、肝心な時に、どこに行っちゃったの!?」
 苛立ちのあまり、ジルは眼に涙を浮かべ、華奢な足を踏み鳴らした。
「……焦っちゃ駄目よ。落ち着かなきゃ、見つかる物も見つからないでしょ。 そう、大きく息を吸って、吐いて……あ──あったわ、これよ!」
 気を落ち着かせたお陰か、倒れて他の薬の陰になっていた小瓶をようやく見つけ出すことができ、彼女は顔を輝やかせた。
 記憶にあった通り、薬瓶には少しだけ、美しい青色の液体が残っている。
「……こんなちょっとで足りるかしら……そっか、とりあえずこれをサマエルに飲ませて、足りなかったら、また作ればいいのよ! 調合の仕方は、ノートに書いておいたはずだし!」
 小さな瓶をしっかりと握り締め、ジルは地下に行くため呪文を唱えた。
「──ムーヴ!」
 しかし、いつもならすぐに作動するはずの移動魔法は、なぜか反応しなかった。
「……あれ? どうしたのかしら。 ──ムーヴ!」
 もう一度試してみるが、やはり魔法は働かない。
(まるで、あの時みたい。さらわれて……あの時も一人ぼっちだったっけ。 いくら唱えても、魔法が全然うまく使えなくて……)
 彼女が思わず身震いした時、聞き覚えのある念話が聞こえて来た。
“ジル様、申し訳ございません、お館様のご命令で、結界を張っております。 そのため、今は、地下への移動はできかねますので”
“タィフィンね? サマエルは病気なんでしょ? ほら、前に村で流行ったやつ。 お薬なら、まだ少しあったわ、今見つけて、持って行こうとしてたのよ。 あたしに伝染(うつ)るのが心配なら、魔法でお薬だけ送るから、結界を解いて”
 意気込んで言ったのに、使い魔からは、否定の念が戻って来た。
“いえ、お薬は不要です。お館様はご病気ではございません、ご心配はご無用でございます”
“……病気じゃないって? じゃあ、どうして倒れたの? その前から、ずっと様子が変だったのよ”
 ジルが食い下がると、タィフィンは口ごもった。
“……それは……お話しますと長くなりますので……”
“え、そうなの? じゃあ、こっちに来て話して……あ、でも、サマエルを一人にしておくのも心配ね”
“いえ、お館様が落ち着かれましたら、もうお一人にして差し上げても大丈夫です。 もう少々お待ち頂ければ、そちらに戻ってご説明を……あ、お、お館様! ──ぎゃあっ!”
 悲鳴と共に、突然使い魔の心の声は途切れ、ジルはぎょっとした。
“──タィフィン!? タィフィン、どうしたの!? ねえ、サマエルは大丈夫なの!? タィフィンってば!”
 いくら呼んでも、使い魔からの返事はなかった。
「──ムーヴ!」
 もう一度呪文を唱えてみたものの、地下に張られた結界は、思いの外に強力で、やはり移動はできなかった。
 体の力が抜け、彼女は床に座り込んでしまった。
「一体どうなっちゃってるの……ねぇ、タィフィン……サマエル……」
 手で顔を覆う。
 栗色の眼から、ついに大粒の涙がこぼれ落ち始めた。

       ◇第2回

 ◆∽‥────────────────────────────∽◆

「……ジル様? ジル様、しっかりなさって下さいませ」
 その声にジルが眼を開けると、灰色のローブに身を包んだ小柄な人物が、体を揺さぶっていた。
 フードを目深にかぶっているため、その顔は見えない。
「あれ? ……あたし?」
 いつの間にか、彼女は気を失い、床に倒れていたのだった。
「ジル様、お加減が悪いのですか? あなた様に何かございましたら、お館様に申し訳が立ちません」
 おろおろと尋ねるその声に、彼女は聞き覚えがあるような気がした。
「……あ、そっか、あなた、タィフィンね! ──そうだ、サマエルはどうしたの!?」
 ジルは跳ね起きた。
「……お館様は……」
 タィフィンは、顔をさらにうつむかせた。
「どうしたの──きゃっ!?」
 使い魔の肩をつかんだジルは、ぬるりとした感触に驚き、手を見た。それは紅く染まっていた。
 ぷんと血なまぐさい臭いが漂う。
「タィフィン……!? あなた、ケガしてるのね!?」
「……い、いえ、大、した、ことは……」
 使い魔は否定の身振りをするものの、着ているローブは、肩から背中にかけてぐっしょりと血に濡れ、痛みに耐えているのか、動作はぎこちなく、呼吸も荒かった。
「嘘。たくさん血が出てるわ、ひどいケガなんでしょ、痛そうよ。待ってて、治してあげる! ──フィックス!」
 彼女の治癒魔法によって、すぐに傷はふさがり、出血も止まった。
「ありがとうございます、ジル様」
 うやうやしく頭を下げた使い魔の姿は、次の瞬間、いきなり消えた。
「ま、待ってよ、タィフィン、どこに行くの!? さっき、戻ったら説明してくれるって言ったじゃない!」
 うろたえる彼女のすぐ隣、使い魔が消えたその場所から、応えが返って来た。
「ご心配なく、どこにも参ってはおりません。これから詳しくお話致しますので……」
「ねえ、どうしてまた透明になっちゃうの……っていうか、なんであなた、いつも姿を消してるわけ?」
 ジルは当惑して尋ねた。
「先ほどは、動転致しておりまして、姿を消すことを忘れていたのでございます……」
「そんなに見られたくないの?」
「はい、……お許し下さい」
 使い魔の声は心底済まなそうだったが、彼女は食い下がった。
「見えないと話しにくいわ。出てきてよ」
「……ですが……」
「だって、サマエルには見えてるんでしょ?」
ジルは首をかしげる。
「使い魔の契約をした際、お館様は、ローブの中は決して見ないとお約束して下さいました……。 わたくしは……どうしようもなく醜いのです……ジル様も、ご気分を害されると思います……。 ですから……」
「そんなに……? でも、あたしだったら平気よ。どんな姿でも、全然気にしないわ」
「……わたくしは、気になります……」
 消え入りそうな声だった。
「……そう。分かったわ。 じゃあ、さっきみたいに顔を隠してていいから、出て来てくれない? それならいいでしょ?」
 皆が皆、自分のように考えるとは限らないということを、徐々に理解して来ていたジルは、譲歩した。
「かしこまりました……」
 灰色のローブを着込んだ小柄な使い魔は、渋々と言った感じで、再び彼女の目の前に現れた。
「ご免ね、タィフィン、わがまま言って」
 使い魔はかぶりを振った。
「いえ、わたくしの方こそ……」
「それはもういいから、教えて。 サマエルは一体どうなったの? あたし、心配で心配で……」
 一刻も早く理由を知りたいジルは、タィフィンをさえぎり、勢い込んで訊いた。
「はい。先ほども申し上げました通り、お館様はご病気ではございません。 それゆえ、一週間ほどもあれば目覚められ、お元気になられて、地上にお戻りなさると思います」
「……本当に? だって、じゃあ、どうして倒れたりしたの?」
「それは……」
 タィフィンは言いよどんだ。
「やっぱり、病気じゃないなんて嘘ね。本当のことを言って。 お願いよ、タィフィン。あたし、心配で死んじゃいそうなの。奥さんなのに、サマエルのこと知らないなんて、悲しい……」
 ジルは眼を潤ませた。
 それでもまだ使い魔はためらっていたが、彼女が鼻をすすり始めると、ハンカチを空中から取り出して渡した。
「どうぞ、お使い下さい」
「あ、ありがと。ねぇ、タィフィン……お願い……」
 再び栗色の眼から、涙がこぼれ始める。
 使い魔は、根負けしたように口を開いた。
「では、お話致しますが……その前に、ジル様、お約束をして頂けないでしょうか? 真実を知っても、お館様を愛し続けて下さると」
 腫れぼったくなった眼を丸くし、ジルは意外そうに言った。
「えっ、もちろんよ、当たり前じゃない。何があっても、あたし、サマエルのことが大好きよ」
 それから急に表情が曇る。
「サマエルが、あたしのことを嫌いになったんじゃなければ、ね……。 ううん、嫌われても、あたしは大好きなままだけど……」
「それは大丈夫でございます、わたくしごときが申し上げるのも僭越(せんえつ)ではございますが、お館様は、ジル様のことだけを見ておられます。 魔族、人族の如何(いかん)を問わず、他の女性など、一切、眼中にございません」
 使い魔はきっぱりと言い切る。
「そう、よかった。じゃあ、教えて。何があったの?」
 ハンカチをぎゅっと握り締め、ジルは改めて尋ねた。
「はい……あの、お館様は……」
 タィフィンが、ようやく重い口を開きかけた、その刹那だった。
 突如、屋敷が大きく揺れたのは。
「な、何? 地震? でも……どっか違うような? ずしん、ずしんって、地下で何か、大きなものが暴れてるみたい……」
「あれは……お館様でございます」
「え? どういうこと?」
 ジルは眼を見開いた。
「お館様は……その、今……」
 言いかけてまた、使い魔は口ごもる。
「ねえ、何なの? 勿体(もったい)ぶらさないで早く教えて」
 じれったげに彼女が問うと、タィフィンは、意を決したように言った。
「は、はい、ジル様。 お、お館様は、今、“脱皮”をなさっておいでなのです……!」
 意外な言葉に、ジルは口をあんぐりと開けた。
「だ、だっぴ……!? ──って、あの、蛇とかが皮を脱ぐ、あれのこと……?」
「そ、その通りでございます。 お館様は、ジル様には黙っているようにとご命じになりました……ですが、ご心痛のあまり、ジル様がお体を壊されてはと、わたくしの独断で……」
 使い魔の言い訳も耳に入った様子もなく、彼女は心から安堵し、笑みを浮かべた。
「──なーんだ、脱皮してただけなのね! よかったぁ、そんなことなら、早く言ってよ、タィフィン。 てっきり、治らないくらいひどい病気かと思っちゃったじゃない!」
「……は? あ、あの、ジル様……?」
 思いがけない相手の反応に、使い魔の方が驚きを隠せなかった。
 ジルは、可愛らしく小首をかしげた。
「……タィフィンってば、どうしてそんなにびっくりしてるの? だってサマエルは、おっきい白い蛇の姿を持ってるでしょ。 どうやったらあんなに大きくなれるのかな、ってずっと思ってたのよ。 そっかぁ、蛇は脱皮して成長するんだもんね。 この頃、よくぼんやりしてたり、食欲がなかったのもそのせいだったんでしょ?」
 使い魔は、ともかくも主人の奥方が取り乱さなかったことに胸をなで下ろし、急ぎ説明を始めた。
「はい。お館様は千三百年に一度、脱皮をなさり、その前にはいつも、そのようなご様子になります。 ただ、今回は、いつもより百年ほども早く、その時期が来てしまいまして。 お館様も、想定外だとびっくりなさっておいででした。 こんなに急でなければ、前もってジル様にお話することも出来たのに、そう仰って……」
「そっか、時期がずれて、急に始まっちゃったの。それなら仕方ないわね。 えっと、一週間……だったっけ、そしたら戻って来られるんでしょ?」
「はい。脱皮自体は一日程度で終わりますが、ウロコが固くなるまで二日ほど、さらに人型に戻られるのにも数日かかりますので、いつもそれくらいの期間は、地下でお一人で過ごされるのです」
「そう、分かったわ。 あ、ところで、さっきのケガはどうしたの? まさか、サマエルが……?」
「……はい。ですが、もちろん故意にではございません。 たまたま振り回した尾が、不運にも自分に当たってしまっただけのことでございます。 ですが毎度、脱皮が始まると神経が苛立たれるようですし、元々白蛇のときには、理性はなくなってしまわれますから……それもあって、ジル様に、地下へは来ないで欲しいと仰られたのでございます。 万が一にも、ジル様を傷つけてしまうようなことがあれば、お館様は、ひどい自責の念に襲われてしまわれるでしょうから」
「そうね、サマエルは優しいもの。 でも、あたしだけ、何も知らないのね……奥さんなのに……」
 ジルはうつむいた。
「大丈夫でございますよ。ご夫婦なのですから、これから様々なことを、お話し合いなさればよいのです。 お時間はたっぷりとございます。 ジル様がお尋ねになれば、お館様は包み隠さず、どんなことでもお答えなさると思いますし」
 慰めるように使い魔は言った。
「そうね……うん、頑張ってみるわ。ありがとう、タィフィン」
 心の重石が取れて、ジルはにっこりした。
 安堵したのは、タィフィンも同様だった。
 地下にいたときから、この事態を、どう主人の奥方に説明すべきか、自分の傷をふさぐのも忘れるくらい、思い悩んでいたのだから。 この女性を、主人が奥方に選んでくれて本当によかったと、使い魔は心から思っていた。

          *        *        *

 一週間が経った。
 朝早く目覚めたジルは、今日こそはという期待を胸に、念話でサマエルに呼びかけてみた。
“サマエル、おはよう。調子はどう? 今日は戻って来れる?”
 しかし、残念ながら答えはなかった。
(七日ちょうどだけど、朝とは限らないものね。今日の夜か、それとも、まだちょっとかかるのかも……)
 彼女はつぶやき、身支度を済ませた。
 サマエルと一緒にいられなくなってから、空腹は感じなくなっていたが、せっかく彼が戻ってくるというのに、やつれた顔は見せられない。
 少しでも食事を摂って、元気を出そう。
 暗い顔で出迎えれば、また夫は、自分自身を責めてしまうに決まっていた。
「それにサマエルだって、お腹すいてるに決まってるわね。 そうだわ、何か美味しくって、力のつく物、作ってあげようっと!」
 食堂に向かう途中で思いつき、ジルの足取りは弾む。
「何がいいかな、うんとご馳走作らなきゃね!」
 元気よく、彼女はキッチンで料理にかかった。
 鼻歌交じりに得意のシチューを鍋一杯作り、かき混ぜるのはタィフィンに任せて、他にも様々な料理やデザートに腕を揮(ふる)いながら、ジルはその日一日を、今までになく明るく過ごした。
 けれど、すべてのごちそうが出来上がり、夜の帳(とばり)がワルプルギス山を覆っても、サマエルは一向に戻ってくる様子はなかった。
「あ、あの、ジル様。その時々によって、きっかり七日とは限らないときもございます……。 それですから、まだ数日、かかるかもしれません。 ですがお館様は、必ずお戻りになりますから……」
 使い魔が、心底申し訳なそうに言う。
「そう、仕方ないわ……そんな顔しないで、先に食べましょ。 ね、タィフィン」
 ジルは無理に笑顔を作り、料理を皿に盛り付ける。
 タィフィンが付き合ってくれたものの、七日続いた夫のいない淋しい食事が終わり、眠る時間になると、ジルは胸が締め付けられるような気持ちになるのを抑えられなかった。
「明日かな……うん、きっと明日は会えるわ……」
 自分に言い聞かせるようにつぶやき、涙で湿った頬をこすりながら、彼女はベッドに入った。

       ◇第3回

 ◆∽‥────────────────────────────∽◆

 何度も寝返りを打つうち、ようやく眠りに落ちたジルは、ふと目覚めた。
 まだ辺りは真っ暗だった。
「なんで眼が覚めたのかしら……」
 首をかしげて起き上がるのと、待ち焦がれていた懐かしい気配を、彼女が感知するのとは同時だった。
 地下ではなく、間違いなく屋敷の中に。
「──サマエルだわ、サマエルが帰って来た!」
 ジルはベッドを飛び出し、夫の部屋に向かって駆けて行った。
「サマエル!」
 力一杯ドアを開けると、感知した通り彼がいて、驚いたように彼女を見た。
「あ、ジル……」
「戻ったんなら、起こしてよ!」
 飛び込んで来た愛しい妻を、サマエルは優しく抱きしめた。
「すまない。朝になれば会えると思ってね……」
「心配したのよ、いきなり倒れて、地下に行っちゃって……もう、二度と会えないかと思った!」
 彼の胸の中で、ジルはしゃくりあげた。
「本当に済まなかった……もう、どこにも行かないよ。 こんな、化け物のような醜い男を、キミがまだ夫と思ってくれるなら……」
「サマエルは、化け物なんかじゃないわ」
 ジルは夫の顔をなでる。
「ほら、お肌も赤ちゃんみたいにすべすべで、うらやましいくらいよ。 ますます綺麗になっちゃって」
 サマエルは眼を伏せた。
「……男が綺麗と言われてもね……」
「どうして? サマエルは顔だけじゃなくて、心だって綺麗よ」
「そう……だろうか。私は、キミを縛っている気がして仕方がない。 いっそのこと、この機会に、キミの前から消えようかと思ったくらいだ……地下で、巨大な抜け殻を見て、自分が化け物であることを実感して……」
 ジルは顔色を変えた。
「そんな! あたし、もう死んじゃわなきゃいけないの? アイシスさんとも約束したのに! まだ赤ちゃん産んでないのに!」
「そんな意味ではないよ、ただ……自分に、キミを妻にする資格があるのだろうかと思って……」
 サマエルはうなだれた。
「あたしはサマエルが好き。だから一緒にいるのよ。それじゃいけないの? それとも、あたしのことが嫌いになった? だから離れたいなんて言うの?」
「まさか。世界中の誰より一緒にいたいと思っているよ、私も。 愛しているからこそ、キミを不幸にしたくはないのだ……」
「それじゃあ、心配いらないわ。 あたし、サマエルといるときが、一番幸せなんだもの」
 ジルは夫を見上げ、微笑んだ。
「ありがとう、ジル」
 妻を抱き上げ、サマエルは口づけた。
 長い長いキスの後、そっとサマエルは唇を放す。
「サマエル……」
 身をすり寄せてくる妻を、愛(いと)おしそうに彼は抱きしめた。
「本当はね、キミが寝入ったばかりの頃に、地上へは戻っていたのだよ。 朝になる前に、ぜひとも済ませたい用事があったのでね」
「用事って、どんな?」
 うっとりと、ジルは夫を見上げる。
「まだ暗いが……その方がいいかも知れない。 ちょっと外に出掛けないか、キミに見せたいものがあるから」
「いいけど。見せたいものって、なあに?」
 小首をかしげる妻を焦らすように、サマエルは微笑む。
「それは、見てのお楽しみ。 朝になってからと思っていたのだけれど、キミに会ったら、すぐに見せたくなってしまってね」
「えー、何? 教えて」
「すぐ分かるさ……そうだ、せっかくの機会です、夜間飛行などいかがですか、奥方様?」
 極上の笑みを浮かべた魔族の王子は、胸に手を当ててお辞儀をし、それから誘うように窓を差し示す。
「ええ、連れてって下さる?」
 レディのたしなみとして、最近礼儀作法を夫に習い始めていたジルもまた、優雅に礼を返した。
 同意を得たサマエルは、窓を開け放ち、妻を軽々と抱き上げて、翼を広げ、夜空へ向けて力強く羽ばたきを開始した。
 ふわりと体が宙に浮き、ベランダから飛び立つと、ジルは栗色の瞳を輝かせ、はしゃいだ。
「──わあっ、すごい! 空を飛ぶのってやっぱり素敵ね、サマエル!」
 以前にも、異界で結界球に包まれて移動したり、タナトスに夜景を見せてもらったことはあるが、夫に抱かれて満天の星空を飛翔する喜びはまた、段違いに大きかった。
「寒くないかい?」
「平気よ。すっごく気分がいいし、お月様も綺麗だわ!」
 ジルが腕を伸ばす先には、青く輝く大きな月がかかり、煌々(こうこう)と下界を照らしている。
「そうだね。今夜の月はまた格別に美しい。魔界の海で育つ、青真珠のようだ……」
「ふうん、魔界の真珠って青いの?」
「ああ。魔界の海は濁って赤黒いが、真珠はなぜか皆、美しいブルーでね。 魔族の故郷、ウィリディスの海の色を映しているとも言われているけれど」
「ふうん。見てみたいな、真珠も、海も。 魔族が早く、ふるさとに帰れるといいわね。 ──あ、あの木! おもちゃみたいにちっちゃいわ!」
 月明かりに浮かび上がる、山頂に立つ巨大な樹は、今、片手でつかめそうなほど小さく見えた。
「あそこに降りるよ」
「うん」
 みるみる近づく巨木に向けて、ゆっくりと二人は下降していった。
「この木のてっぺんに乗ったのなんて初めて! すごーい! ──あ、お家も見えるわ、ほら、あそこ!」
 頭頂部近くの太い枝に着くと、ジルは歓喜の声と共に、光を指差した。
 すべてが闇に沈む山中で、窓に灯りがともされたサマエルの屋敷だけが唯一、文明の輝きを誇っていた。
「綺麗ねー。見せたいものって、この景色のことだったの?」
 妻の問いに、サマエルは否定の仕草をした。
「いや、残念ながら。 キミが、山の景色以上に気に入ってくれるかは分からないが、悲しませたお詫びにと思ってね」
「お詫びなんて、もう気にしてないのに」
「私の気が済まないだけさ。おいで、ジル」
 サマエルは再び彼女を抱き上げ、黒い翼を広げて、地面に舞い降りた。
「見せたかったものは、これなのだが……」
「え、これ……?」
 ジルは眼を真ん丸くし、燐光を放ちながら風に揺れる、目の前のものを見つめた。
 木の枝から、銀の細い鎖が二本下がっていて、その先に据えつけられていたのは、三日月形をした純白のブランコだった。
「どうだろうか、……」
 おずおずとサマエルは尋ねる。
「これを作ってくれたの? あたしのために? すごい! 素敵!」
 満面の笑みで、ジルは夫を振り仰いだ。
「そうだよ。気に入ったかい?」
「うん、とっても! 乗ってみてもいい?」
「もちろんだとも」
 大喜びで、彼女はブランコに飛び乗る。
「一緒に乗りましょ、サマエル。ほら、椅子が広いから平気よ」
「……ああ、何人かで乗れるように、大きめに作ったからね」
 サマエルは、彼女と向かい合わせに座る。
 指をぱちりと鳴らすと、静かにブランコは揺れ始めた。
「──わあ、素敵! まるで本物のお月様に乗って、お空を旅してるみたいー。 今日は、ホントに、素敵なことばっかりあるわ……!」
 ジルははしゃぎ、栗色の髪をなびかせて、しばしブランコを楽しんだ。
 サマエルもまた、そんな妻の姿を、この上ない喜びと共に眺めていた。「お船に乗ってるみたい……このまま、どこか遠くに行けたらいいな……」
 そのつぶやきにサマエルが答えようとした時には、ジルは手すりにもたれかかり、安らかな寝息を立てていた。
 彼は、我知らず微笑んだ。
(おやおや、乗り心地がよかったのかな……いや、夜中に起してしまったからだろう。
 少し冷えてきたな、風邪を引いてはいけない)
 起こさないように小声で呪文を唱えて、サマエルは妻を屋敷へ連れ帰った。


         *       *       *


 翌朝、ジルは自分のベッドで目覚めた。
「……あれ? 夢だったのかしら? ──あ、違うわ、やっぱり!」
 夫の気配は、屋敷の中にちゃんとある。
 それをたどり、ジルはキッチンに向かって全速力で走った。
「おはよう、ジル。よく眠れたかな?」
 湯気の立つカップをテーブルに置き、サマエルは彼女に微笑みかけた。
「サマエル!」
 昨夜と同じく彼女は夫の胸に飛び込み、二人は長い口づけをかわす。
 やがてサマエルは、そっと唇を放し、妻の顔を見つめた。
「改めて、済まなかったね、ジル……」
「ううん、帰って来てくれたから、もういいの……」
 ジルがキスの余韻(よいん)に浸りながら眼を潤ませていたとき、突如、ぐうと腹が鳴り、彼女の顔に火が走った。
「きゃ……こんなときに、どうして鳴るのぉ、お腹のバカ!」
 サマエルはくすくす笑った。
「さ、キミのお腹のリクエストだ、朝ご飯にしようか」
「ホント、嫌ねぇ。ものすごく恥ずかしいわ。 ……せっかくいいムードだったのに……」
「仕方がないさ。いや、かえってほっとした……本当に、キミの元へ帰って来られたのだなと実感できたよ」
 彼は、しょげる妻を慰めた。
 ジルは頬を赤らめたまま、あたふたとエプロンをつける。
「は、早く食べましょ。何がいい? シチューもあるけど」
「いや、シチューはディナーにしよう。 朝はいつものメニューでいいよ。キミのオムレツは絶品だ……生きていてよかったと思えるほどにね」
「大げさね。じゃあ、すぐ作るから待ってて」
 ジルは気を取り直して手早く卵を焼き、サマエルの向かいに座った。
「さあ、召し上がれ」
「頂きます」
 一切れオムレツを口にしたサマエルは、しみじみと言った。
「ああ……なんて美味しいのだろう。体中に染み込んでいくようだ……」
「そう? よかった」
 ジルは心から幸せそうに答え、自分も食べ始めた。
 時折二人は眼を見合わせて微笑を交わし、なごやかに朝食は進んだ。
 試練の後の、至福の時。
 二人だけの幸せな時間が過ぎてゆく。
 だが、ほぼ食べ終えた頃だった。
「あああ──!」
 突如サマエルが、フォークを取り落として叫び声を上げ、顔を覆ったのは。

       ◇第4回

 ◆∽‥────────────────────────────∽◆

 ジルは驚いて立ち上がり、夫に駆け寄った。
「どうしたの、サマエル! また具合が悪くなったの!?」
「ち、違う……」
 手で顔を覆ったまま、サマエルは首を横に振る。
「だったら、何?」
「何て私は幸せなのだろう……そう思ったら、出ないはずの涙があふれそうになって……。 私の眼は、もう、涙を流すこともできないのに……」
「え? サマエルって、泣けないの?」
 面食らうジルの声も耳に届いた様子はなく、彼は身悶えた。
「ああ……こんな風に、明るい日の光の下でジルと微笑み合いながら食事をしているなんて、これは絶対夢だ、幻覚に違いない。 本当の私はまだ魔界にいて、目覚めたら彼女は消え……一人ぼっちで私は暗い牢獄にいるのだ……」
「夢じゃないわ、ほら、あたしはここにいるでしょ、見て、本物よ!」
 ジルは夫の肩をつかみ、揺さぶった。
 サマエルはびくりとし、それから顔を上げて妻を見、おずおずとその頬に触れた。
「……温かい。本当だ、キミはここにいる、ちゃんと実体がある。夢ではない、幻覚でもない……。 けれど、こんな私が……誰かと眼を見交わして微笑んだり、幸せな気持ちで食事を摂ることが、許されていいのだろうか……」
 あまりにも幸(さち)の薄い魔界の王子は、ささやかな幸福を感じることにさえ慣れていないのだった。
 それは、心の傷の深さにも関係があったのかもしれない。
 サマエルのトラウマは彼の内部に深く根を下ろし、不幸で傷つくのは無論だが、幸福に過ごすことでも 心は痛むのだ。
「どんな人も、幸せになるために生まれて来るのよ。 もちろん、サマエルも、あたしもね。 だから幸せになることに、後ろめたさなんか感じなくていいの」
 ジルは優しく夫を抱きしめ、幼子に言い聞かせるように、ささやいた。
「そう……なのかな。でも、幸福になる前に、死んでしまう者もいるよ……」
「もし間に合わなかったら、そのときは生まれ変わるのよ。 今度こそ幸せになるために、ね」
 ジルは大きな栗色の瞳で、サマエルの魔眼を見つめる。
(何という至福……この私が、光の女神を独り占めにしているとは……)
 さんさんと降り注ぐ朝日の中、癒しを感じさせる不思議な眼差しと、天女のごとき笑みを持つ女性は、自分の妻なのだ。
 しかし幼少の頃から、悲惨な目に遭い続けていたサマエルにとって、その幸運を現実として受け入れることはかなり難しかった。
 幸せだと感じた瞬間、それが粉々に打ち砕かれ、一層ひどい不幸が追い討ちをかける恐怖。
 それに怯えた彼は、わずかな幸福をも避けるようになり、しまいには常に不幸せでいる方が気が楽だとさえ、考えるようになってしまっていたのだ。
 だが、改めて考えてみると、どう転んでもこれ以上、悪くなりようがないことに彼は気づいた。
(そう、どうせ私は、寿命を全(まっと)うすることもできず、生け贄として死ぬ身。 今だけでも、最愛の人と共にいられる贅沢(ぜいたく)を自分に許してもいいだろう……)
 ジルの存在に救われて、王子が開き直ると共に、心の痛みも霧散(むさん)していく。
「キミの言う通りだね、ありがとう、ジル。もう大丈夫だから……」
 彼がやっと自分を取り戻すと、ジルも安堵して席に着いた。

         *         *         *

「ごちそう様、とてもおいしかったよ。
 食事が楽しみになるなんて、昔の私からは想像もつかないことだ……」
 そうして、ようやく朝食を終えたサマエルは、しみじみと言った。
 ジルはにっこりした。
「そう、よかったわ。これからもおいしいもの、たっくさん作るわね」
「それは楽しみだな。ああ、お茶は私が淹(い)れよう」
 サマエルは手の一振りで、ポットとカップを二つ出し、手馴れた仕草で、薄茶色の液体を注ぐ。
 湯気の立つカップを受け取り、ジルは言った。
「ありがと。ねえ、昨日のブランコに、また乗ってもいい?」
 彼は微笑み、答えた。
「もちろんだとも。今日はいい天気だし、気持ちよく過ごせると思うよ」
「じゃ、一緒に行きましょ、サマエル。もし用事がなかったら」
 サマエルはかぶりを振る。
「キミと過ごせるに勝る用などないよ。 ……そうだ、また飛んで行くかい?」
「え、いいの?」
 ジルは栗色の瞳を輝かせた。
 朝日の中、魔族の王子は黒い翼で風を切り、妻を頂上まで運ぶ。
 ジルは昨日に引き続いて感激し、サマエルの腕の中で、はしゃいだ。
「素敵、素敵! もっと早く、こんな風に運んでもらえばよかったわ!」
「では、これからは毎日飛ぼうか」
「ホント!? あ、でも、大変なら無理しないでね」
「いや、大丈夫だよ」
 サマエルは微笑んだ。
 ジルは小柄で、さほど重くもなく、彼の翼の負担にはまったくならない。
 木の根元に舞い降りると、月型のブランコは、日光を反射して銀色に輝いていた。
「お日様の光で見ても素敵ね、このブランコ!」
「そう、気に入ってくれてよかった」
「さ、サマエルも一緒よ」
 夫の腕をつかみ、ジルはブランコに乗り込む。
 ひとしきり遊んだ後で、彼女はつぶやいた。
「……これも素敵だけど……あたし、本物のお船で旅に出てみたいな」
「え?」
「昨夜も思ったんだけど。どこかに旅行してみたいなって」
「そういえば、このままどこか遠くに行けたらいいなと言っていたね。 こんな辺ぴな山の中で、話し相手は私だけというのも飽きただろうし、このブランコも、ただ前後に動くだけだしね。 ……行っておいで、ジル。 キミと離れるのは辛いが、たまには気晴らしも必要だ」
 ジルは眼を見開いた。
「──え!? 嫌よ、あたし、サマエルから離れたくない! そうじゃなくて、二人一緒に行くの。 あたし、サマエルと旅がしたいのよ!」
 彼女は夫にすがりついた。
 妻の提案に、サマエルは驚愕した。
「えっ、わ、私と……だって!?」
「そうよ。あたしと一緒の旅行なんて、嫌?」
「……そ、そんなことはないよ。キミとなら、きっとどこへ行っても楽しいだろう……。 い、いや、やはり駄目だ、私は……人目を惹いてはまずいから……」
 サマエルは口ごもった。
 “賢者”としても魔族の王子としても、大っぴらに出歩くことは、彼にはあまり得策とは思えなかった。
 夫のためらいを見て取ったジルは、ここぞとばかり熱弁を振るった。
「それは分かるけど、同じところでずっとこもってるのって、よくないように感じるの。 あ、もちろん、二人きりで暮らしているのも、あたしは大好きよ。 でも……静かなのはいいけど、毎日、同じことの繰り返しだし、特にしなくちゃいけないってこともないでしょう? 暇だから、暗いことばっかり考えちゃうんじゃないかしら。 だから時々は、別な場所に行って、色々考えたり感じたりした方がいいのよ、きっと。 ──ね、そう思わない?」
「……そうかも知れないが……」
 サマエルは眼を伏せた。
 彼女は夫の手を取り、その端正な顔を覗き込んだ。
「ね、お願い、サマエル。あたし、海に行きたいの。大きなお船に乗ってみたいのよ。 村の近くには海があってよく泳いでたけど、港がなかったから。 いつかおっきなお船で、遠くに行ってみたいなって、ずっと思ってたの。 ──ね、お願いよ、一回きりでいいの。一度海に行けたら、もう、我がまま言わないから!」
 それはジル自身の望みというより、心から夫の身を案じてのことだった。
 以前から彼女は、薄々とは感じていた。
 あまりにも平穏過ぎる生活が長く続くことは、夫にとって、あまり好ましくないのではないかと。
 そして、その懸念が、先ほどの会話で明確な形となって現れたことにより、彼女は本気で危惧(きぐ)の念を抱いたのだった。
 しかし、ジルの懸命の努力にも関わらず、サマエルはうなだれ、しばらく黙りこくっていた。
 やはり駄目かと彼女が諦めかけたとき、魔族の王子はようやく顔を上げた。
 瞳には、先ほどまでとは別人のように、力強い光が宿っている。
「分かったよ、行こう。今までキミには、何の楽しい思いもさせてあげたことがなかったものね。 ローブで顔を隠せば、私の正体が知られて、騒ぎになることもないだろう……」
「ほ、ほんと!?」
 ジルは、身を乗り出した。
「そう、よく考えたら私の……“賢者”としての顔を知っている者は、人界では数えるほどで、ほとんどいないと言っていい。 考慮に入れる必要もないくらいだ。 天界も、しばらくは静観すると言っていたし、もし何か仕掛けてこようとしても、人の多いところではかえって手出しできにくいだろう。 ──そうだ、どうせなら、魔法で完全に姿を変えてしまうというのも一つの手かな。 別人になって天界を欺(あざむ)き、旅をする、というのも面白いかも知れないね」
 そして魔界の王子は、見る者を惹きつける、魅惑的な笑みを浮かべた。
 いつになく積極的な夫の様子に、ジルの眼も輝いた。
「あたしは変える必要ないけど、サマエルは有名人だもん、それがいいかもねっ!」
「いや、キミも天界には眼をつけられている、少し外見を変えてみてはどうかな」
「え、あたしも?」
「まあ、髪や眼の色を、多少いじるくらいだけれどね……」
「ふうん、面白そう!」
「では、善は急げだ、今すぐ変身して出発……いや、それでは慌(あわただ)し過ぎるかな。 特に急ぐ理由もないしね。 せっかくキミが作ってくれたシチューもあることだし、ディナーまでは旅行の準備に当てて、明日の朝、出発することにしようか」
「うん!」
 ジルは飛び立つような気持ちで同意し、それを見たサマエルの心も、いつになく浮き立つ。
 楽しい気分のまま、彼は使い魔に念話で告げた。
“タィフィン、明日からしばらく、ジルと二人で屋敷を空けることにしたよ。 留守を頼む”
“かしこまりました。お任せ下さい、お館様。旅のご無事を祈っております”
 驚く様子もない答えが遅延なく返って来る。
 使い魔の声もまた、心なしか弾んでいるようだった。
 おそらく、いきさつを聞いていたのだろうが、サマエルは、それを咎(とが)めるつもりはなかった。
 この優秀な使い魔が、自分と妻との間に立ち、色々と心を砕いていたのを、彼はちゃんと知っていた。
 今回も、自分のこと以上に気をもんで、はらはらしていたに違いなかった。
“そうだ、タィフィン、私達はかなり長期間、旅行することになると思う、だから、お前も休暇を取って羽を伸ばしておいで”
“……よろしいのですか?”
 遠慮がちな使い魔に、彼は言った。
“館のことなら心配いらない、結界もあるし、ケルベロスに毎日巡回させる。 たまには魔界に還っておいで。帰る一週間前くらいに連絡するから”
“はい、では、お言葉に甘えさせて頂きます”

 こうしてサマエルとジルは、初めて二人きりの旅……遅まきながらのハネムーン……に出ることになったのだった。

       ◇第5回

 ◆∽‥────────────────────────────∽◆

 翌日。元気よく目覚めたジルだったが、外は雨が降りしきっていた。
 それも半端な降りではなく、嵐と呼べるくらいひどいものだった。
「あーあ、すごい雨……。出かける日に限って……これじゃ、無理ね」
 恨めしそうに窓から空を眺め、がっかりしている妻に向けるサマエルの眼差しは優しい。
「大丈夫、砂漠に出てしまえば、必ず晴れているよ」
「あ、そっか! 今日はピクニックじゃなかった、もっと遠くに行くのよね!」
 ジルの顔は輝いた。
 だが、サマエルは気づかれないよう、こっそりため息をついていた。
 昨夜、彼女が寝てから、旅の前途をカードで占ってみたのだが、なんと、“女難の相”と出たのだ。
 しかし、今回の旅行を楽しみにしている妻に、水を差すようなことを告げたくはない。
 また、それ以外の安全は確保されていると占いには出たから、サマエルは懸念を自分一人の胸に、そっとしまい込むことに決めたのだった。
 朝食を手早く済ませ、二人は魔法で山を降りた。
 下界でも小雨が降っていたが、それもすぐに止んだ。
「あ、晴れたわ。山の上とはやっぱり天気が違うのね」
 ジルは言った。
「そうだね。では、次は砂漠だ。 ──ムーヴ!」
 サマエルは再び呪文を唱え、彼らは刻の砂漠に到着した。
「わあ、広~い! 砂ぱっかり~! あたし、初めてよ、砂漠に来たの!」
 一面に広がる砂の海を見にしたジルは、両手を大きく振り回した。
「そういえば、キミが屋敷に来た後は、ここまで出て来たことはなかったね」
「うん。村の砂浜は白かったから、紅い砂って初めて見るわ……」
 ジルは、不思議な赤みを帯びた砂漠に手を差し入れる。
「熱いのね、それにさらさら……」
 彼女は砂を両手ですくい上げては、何度も落とした。
 生成りのローブを着込み、深々とフードをかぶっていても、強烈な砂漠の太陽は、容赦なくじりじりと照りつけて来る。
 ルビーの欠片のような砂に乱反射する日差しを眩しげに手でさえぎりながら、サマエルは妻を促した。
「ここは帰って来てからも見られるよ。さ、次の街へ飛ぼう」
「うん。次はどこに行くの?」
「港湾都市のカミーニだ。 気候が温暖な観光の名所で、人が多いのが難点だけれど。 そこから、メリーディエス国行きの船に乗ろうと思っているのだよ」
「外国行くの? すごいすごい!」
 彼女は子供のように飛び上がり、はしゃぐ。
 サマエルは微笑んだ。
「ファイディーの国内を回るよりも、いっそ外国へ行ってみようかと思ってね。 たまには気分を変えるのもいいだろう? 客船も、国内便より大きいしね」
「メリーディエスって、南の島でしょう? あたし、島に行くのも初めてよ、うれしいな!」
「では行くよ──ヴェラウエハ!」
 サマエルは遠距離移動の魔法を唱えた。
 次の瞬間、閑散とした海辺に二人は着いた。
「あ、海! ここがカミーニなの?」
 ジルは周囲を見回した。
「いや、その近くだよ。いきなり町中に出るのは、賢明ではないからね」
「そうね。じゃ、あとはゆっくり街まで歩きましょ」
 雲一つない空の下、潮騒(しおさい)だけが聞こえてくる海沿いの道を、景色を眺めながら二人きりで歩いていく。
 そんな彼らのローブを潮風はなぶり、カモメが一羽、鳴き声を響かせて頭上をよぎった。
「なんか波の音と潮の香りが、すっごーく懐かしいわ……。 あたし、泳ぎたくなっちゃった」
「待って」
 波打ち際に向かおうとする妻を、サマエルは引き止めた。
「ここは駄目だよ。 来る前に調べたのだが、浜辺からは分からない複雑な海流があって、よく溺れる者がいるそうだ。 だから、こんなに空いているのだよ……ほら、注意書きがあるだろう?」
 サマエルは、ひと気がない砂浜に、ぽつんぽつんと立っている看板の一つを指差した。
「なーんだ。残念」
 いかにもがっかりした様子の妻に、彼は慰めの言葉をかけた。
「大丈夫。ちゃんと安全な砂浜もあるから、後で泳ぎに行こう。 それよりもまずは、乗る船を決めなくてはね」
「そうね、お船もどっちも楽しみ!」
 すぐにジルは元気になり、足取りも軽くなる。
 カミーニに近づくに連れ、徐々に人が増え、街の喧騒(けんそう)に、波音も磯の香りもかき消され始めた。
「具合悪くない? レシィ……」
 夫が、人ごみが苦手だと知っているジルは、心配そうに尋ねる。
「ああ、キミがいれば平気だよ」
 サマエルは彼女に笑みを向けた。
 旅立つにあたり、彼は、賢者として広く知られている名、“サマエル”を避け、“レシフェ”と名乗ることにしていた。
 彼の真の名に似た名前を選んだのだが、ジルは発音しにくいらしく、レシィと短く呼ぶことが多かった。
 対するジルは、よくある名前でもあり、本名をそのまま使うこととした。
 街の中に入ると、二人は、サマエルがあらかじめ調べておいた大型船の乗り場へ出向いた。
「これが今日乗るお船?」
 目の前に浮かぶ大きな客船を指差し、ジルが尋ねる。
 船体は白く塗られ、金の縁取りに黒の文字で“トルレンス号”と船名が記されていた。
「定員があるからね、これに乗れるとは限らないが、とにかく訊いてみよう」
「うん」
 どっしりした立派な扉を開け、船着場のそばにある建物に、彼らは足を踏み入れた。
「いらっしゃいませ、お客様。こちらへどうぞ」
 受付係の女性が立ち上がって、うやうやしくお辞儀をし、二人をソファに導いた。
 ジル共々それに腰掛け、サマエルは訊いた。
「今日出港する、メリーディエス国行きの船便はあるだろうか」
「少々お待ち下さいませ」
 女性はデスクに戻り、帳簿を調べ始めた。
 ややあって顔を上げ、受付の女性は答えた。
「……申し訳ございません、本日の便は満席でございます。 明後日の便でしたら、ご用意できますが」
「急ぐ旅でもない、それで構わないが……どんな船かな? なるべく大型の客船に乗りたいのだが」
 サマエルが念のため尋ねると、女性は胸を張った。
「ご安心下さい、明後日出港の便はファイディーでも一、二を争う、我がアステール船会社、自慢の豪華客船でございます。 優雅な船旅を満喫して頂けること、請け合いでございますよ。 ちょうど今、隣の船着場に停泊致しております、ご覧になりますか?」
「えっ、さっきのお船に乗れるの、素敵!」
 ジルの声が弾む。
「つい今しがた見てきたよ。妻も気に入ったようだ。では、一等船室のツインを頼もう」
 上客と知った受付係の態度は、一層ていねいになり、うやうやしいお辞儀をした。
「はい、かしこまりました。 メリーディエス国までの渡航日数は、途中寄港も入れまして十日間でございます。 料金はお二人様で金貨二十枚となります。前払いでお支払い頂くようになっておりますが」
 女性は、羊皮紙に金で縁取りされた料金表を差し出した。
「ああ、そう」
 サマエルは、それを見もせずに懐から小袋を取り出す。
「ありがとうございます。こちらをどうぞ」
 金貨と引き換えに、女性はチケットと領収書、渡航日程等が書かれた小冊子を彼に渡した。
「それから、乗船名簿にサインをお願いします」
 さらに女性は、引出しから革表紙の帳簿を出して広げ、ペンを差し出す。
 サマエルはすらすらと、二人分の名前を書いた。
「ジル・アラディア様と、レシフェ・アラディア様でございますね」
「ああ、新婚旅行で、南の島への船旅を楽しもうと思っているのさ」
 サマエルが、とっておきの笑みを浮かべると、女性はみるみる耳まで紅くなった。
「そ、それは、おめでとう……ございます。 チ、チケットを……なくされませんよう……」
「ありがとう。そうだ、出港は何時かな?」
「こ、こちらの冊子にあります通り、み、明後日の十時でございます。 ご注意下さい、連絡なく遅刻なさいますと、お客様がいらっしゃらなくても出港致します。 その際は、返金も致しかねますので……」
「分かった、気をつけよう。では、明後日にまた」
「はい……お待ち申し上げております……」
 女性は頬を赤らめたまま、深く頭を下げた。
 建物から出ると、くすくす笑いながら、ジルが言った。
「なんかあの人、サマエルがにっこりした途端に、真っ赤になっちゃったわね」
「……そうだったかな」
「絶対そうよ。サマエルの笑顔って、効果絶大なんだから。 誰でも、幸せな気分にしちゃうのよ」
 無邪気にジルは言ってのける。
 サマエルは複雑な顔をした。
 それは自分が女性の精気を吸うインキュバスだから、というのが真相なのだが、純粋無垢(むく)な妻には分からないのだろう。
 しかし、幸福な誤解を解く気は、彼にはなかった。
「これでともかく、船は決まった。 後は宿を探して、それから泳ぎに行こうか」
「うん! 海で泳ぐのって久しぶり! あ、そういえば、あたし、宿屋に泊まるのも初めてかも!」
 水晶球の占いはさて置き、楽しそうな妻を見るたびサマエルは、旅に出てよかったと思うのだった。
 様々な宿があったが、彼らはカミーニで一番大きな宿屋に泊まることにした。
 さすがにサマエルの屋敷とは比べものにはならなかったが、建物や内装は、なかなか贅を凝らしてある。
 一階の食堂で昼食を摂ると、二人は宿屋を後にした。
 途中で流行の水着を買い、他にもドレスや衣装をいくつか選んで、宿へ配達してもらう手はずにし、二人は浜辺に向かった。
 無論、服は魔法で作り出すこともできたが、資金は潤沢(じゅんたく)な上に、現在の流行を、彼らは知らなかったから、たまには買い物もいいだろうということになったのだ。
 安全な海辺の方は、さすがに観光地だけあって、結構混雑していた。
 サマエルは、ジルと一緒に砂浜に下りていくことはせず、浜に面したカフェで日差しを避けながら、彼女が水遊びに興じているのを眺めていることにした。
 一頻(ひとしき)り泳いだ後、ジルは引き返して来た。
「レシィ! こっち来て一緒に砂遊びしない?」
「いや、遠慮しておくよ。楽しんでおいで、私はここで待っているから」
「うん!」
 栗色のお下げを揺らし、再びジルは、砂浜目がけて駆け出していく。
「可愛い方ね。妹さん?」
 そのとき、隣のテーブルにいた女性が声をかけてきた。
 サマエルは、ちらりと相手に視線を向け、美人と見て取ると、フードを深くかぶり直した。
「いえ、妻ですよ。私達は新婚旅行に来たところでね」
「まあ、奥様!? 随分とお若いこと……」
 驚いたように女性は眼を見張る。
「彼女は若く見られるようでね。あれでも、もうすぐ二十五なのですが」
「……そうでしたの、わたし、てっきりまだ十代かと……。 でも奥様がうらやましいわ、色んな意味で……」
 美女が、悩ましげに髪をかき上げ身を乗り出すと、扇情(せんじょう)的な水着の間から覗く、水蜜桃(すいみつとう)のような胸が、男の視線を奪おうと揺れる。
 長いまつげの下からの、艶(つや)っぽい流し目を眼にしたサマエルは、露骨にため息をついた。
 そのとき。
「ねー、レシィ! やっぱり一緒に来て!」
 ジルがまたも走ってきて、サマエルの腕をぐいと引いた。
「ああ、そうだね……では」
 天の助けとばかり彼は立ち上がり、女性に軽く会釈(えしゃく)して歩き出す。
 いかにも残念そうな美女の視線を、背中で受け流しながら、彼らは海に向かった。
「ありがとう、ジル。助かったよ」
 心底ほっとして、サマエルは言った。
「うん、サマ……じゃなかった、レシィ、困ってたでしょ。 だから急いで助けに行ったの」
 ジルはいつもの通り、天真爛漫(てんしんらんまん)な笑みを彼に向けて来る。
「よく分かったね」
「だって、あたし、あなたの奥さんだもの……あ」
 自分の腕に身をすり寄せてくる妻を抱き寄せ、その唇を、カフェの女性に当てつけるように思い切りサマエルは奪った。
 この幸せなひとときを何者にも邪魔などさせるものかと、彼は決心していた。

       ◇第6回

 ◆∽‥────────────────────────────∽◆

 いよいよ出港日がやって来た。
 サマエル達は宿屋の清算を済ませ、港に向かった。
 だが、チケットを見せたというのに、受付係は彼らを船内に通そうとはしなかった。
「なぜ乗船できないのだね、この通りチケットはあるし、旅費はもう前払いしてあるぞ」
 サマエルは尋ねた。
「いえ、ですが、ご本人様達であるという確認が出来ませんので……」
 接客係は、胡散(うさん)臭そうに、二人をじろじろと眺め回す。
 麻のローブで全身を覆い隠し、供の者も連れずに、みずから大きな荷物を下げている。
 そんな格好が怪しまれたのだろうか。
 揉め事を起こしたくはないと、サマエルは苛立ちを押し殺し、さらに言った。
「三日前、受付にいた女性はどうしたのかな。 名前は分からないが、たしかに彼女がチケットを切ってくれたのだ。領収書もある」
 受付係は領収書を見もせずに、首を横に振った。
「残念ながら、本日は体調を崩して休んでおりまして。 身分証をご提示願えませんでしょうか」
 どうやらこの男は、臨時に案内をしている者のようだった。
「……身分証? そんなもの、今まで誰も見せていなかったではないか」
「はあ……他の方々は皆様、常連のお客様でして」
「ねえ、レシィ、あたし達、お船に乗れないの?」
 不安そうに、ジルが問い掛けてくる。
 先の見えない押し問答に、サマエル達がうんざりしていたとき、頭上から声が降ってきた。
「どうしたんですか、そろそろ渡り橋を上げないと! もう出航十分前ですよ!」
 見上げると、船員の制服を来た男が一人、船と岸とをつなぐために作られた、取り外しのできる橋を軽快に駆け降りて来るところだった。
 あっという間に彼らの側まで来た男は、白い帽子を取り、サマエル達に会釈した。
「お客様、わたしはプルース一等航海士と申します。 一体どうなさったのですか?」
「あ、この方々が、身分証の提示をして下さらなくて困っていたのです」
 サマエルが答える前に、案内係が口を開いた。
 航海士は眉を寄せた。
「……身分証だって? 普段はそんなもの、お客様に見せて頂いてはいないだろう? チケットをお忘れとか?」
「いや、ここにちゃんとあるのだが、この人が、なぜか乗船させてくれないのだよ」
 ようやく話の分かる相手が出てきたと思い、サマエルは航海士に乗船切符を示した。
 その途端、男が息を呑んだのに気づき、サマエルは密かに身構えた。
 案の定、航海士は彼に向かって言った。
「あ、あの……失礼ですが、もしや、あなたは……賢……」
“私はキミを知らないが、そう呼ぶのはやめてくれないか。 騒ぎが大きくなると面倒だ。出港も遅れるぞ”
 間髪入れずサマエルは念話で、ぴしゃりと相手の話をさえぎった。
 プルースは眼を丸くしたものの、すぐに念話を返してきた。
“し、失礼致しました、賢者様。 あなた様がわたしをご存じないのも当然です、わたしは単に、女王陛下の戴冠十三周年記念式典の末席に連なっていた者ですから……”
 この男も魔法使いなのだろう。
 しかもこれほど念話を流暢(りゅうちょう)に扱えるところをみると、謙遜(けんそん)してはいるが、魔力もかなり強いようだった。
 サマエルはうなずいた。
“ともかく、今は、賢者の名とは無縁にしていたいのだ。 私のことは、レシフェ・アラディア、そう呼んでくれ。 後で詳しく話そう、もう出航までいくらも時間がないのだろう?”
“かしこまりました”
 航海士は同意し、案内係に声をかけた。
「こちらのお方、レシフェ・アラディア様に関しては、何も心配はいらない。 わたしがご案内するから、キミは持ち場に戻っていいよ」
 しかし、案内係は食い下がった。
「で、ですが、また強盗だったりしたら……」
「ああ、そうか」
 プルースはようやく理由に思い当たり、サマエルに礼をした。
「この者の無礼をお許し下さい、レシフェ様。 実は、先月、ローブ姿の男達が、後で強盗に早変りしたことがありまして。 それで神経質になっているのですよ……幸い、撃退はできたのですが」
「なるほど、それでね……では、これでどうかな」
 サマエルは口の中で小さく呪文を唱え、それから、ばさりとローブを脱いだ。
 たちまち、夜会服を身にまとった、貴族然とした姿が現れる。
 ただし魔法で銀髪を黒くし、瞳の色も、紅からサファイア・ブルーへと変えてあった。
 無論、魔族の証である翼や角は封印してあり、額に輝く宝石は緑色をしている。
 そうして変装した彼は、かつて“砂漠のオアシス”と讃(たた)えられた母、アイシスに生き写しだった。
 プルースと案内係は眼を丸くし、男性と言うよりはむしろ、男装の麗人と呼んだ方がふさわしいほどの美貌に見とれてしまった。
 航海士は思わず、我ながらこれでよく賢者サマエルと見破れたものだと、つぶやいた。
 以前会ったことがあり、賢者の気を知っていたからこそ、気づくことができたのだろう。
「こちらはジル、私の妻だ。さ、キミもローブを取って」
「うん」
 サマエルの言葉に従って、ジルも麻のローブを脱ぎ、可憐な薄桃色のドレスに身を包んだ姿を現す。
 かつて彼女の風貌(ふうぼう)は、貴族どころか、それに仕える侍女と間違われてしまいかねなかった。
 しかし今は、サマエルの言葉と衣装、特徴ある瞳、そして何より、ジル自身の内面からあふれ出す輝きとが、彼女をしっかりと貴族の若妻に見せていた。
「ご覧、この方達が強盗なわけがないだろう。お客様に謝罪なさい」
 航海士は案内係を叱った。
「も、申し訳ございません!」
 案内係は焦って頭を下げる。
「分かってもらえれば、それでいいさ」
 サマエルはようやく愁眉(しゅうび)を開いた。
 プルースは、うやうやしく胸に手を当て礼をした。
「わたくしからも重ねてお詫び致します、ジル様、レシフェ様。 そして、改めまして、トルレンス号へようこそお越し下さいました。 特等船室へご案内申し上げます、どうぞこちらへ」
「特等船室? 私は一等船室を頼んでいたのだが」
「いえいえ、やんごとない方々を、粗末な部屋にお通し申し上げるわけには参りません。 ご無礼のお詫びも合わせまして、どうか、特等へお泊り願いたく……」
 航海士は、深々と頭を下げた。
「そこまで言うなら、そうさせて頂こうかな」
 サマエルは鷹揚(おうよう)に答える。
 今の一幕は、甲板で出航風景を見ようとしていたたくさんの乗船客達の耳目(じもく)を惹き、航海士に導かれてゆっくりと渡り橋を上がってゆくサマエルとジルは、好奇の的となってしまった。
 サマエルは心の中で顔をしかめたものの、それを面には出さず、妻の手を引き、にこやかに船内へと向かう。
「こちらのお部屋でございます。お気に召して頂けますかどうか……」
 プルースは一つの扉を手で示し、鍵を開けた。
 中は、船の内部とは思えないほど豪華な造りになっていた。
「素敵ね、レシィ」
 ジルがサマエルに微笑みかける。
「そうだね。 ありがとうプルース、素晴らしいよ。追加料金を……」
 財布を出そうとする彼を、航海士は押し留めた。
「いえいえ、料金などとんでもない。 元々この部屋は空室になっておりまして。賢者様にお使い頂ければ幸いと存じます」
「その“賢者”というのはやめてくれないか、今の私は、レシフェ・アラディアだ」
「はい、分かっております。 ただ、やはり船長だけには、事の次第を報告しなければならないと思いますが、よろしいでしょうか」
 うやうやしく、航海士は尋ねた。
 サマエルは肩をすくめる。
「……仕方ないね」
 その後一通り、部屋の説明をしたプルースは、壁に取り付けられた管の先のようなものを指し示した。
「他に何かご用がございましたら、この伝声管をお使い下さい」
 それから礼をし、航海士は退室していった。
 その後姿を見送り、ジルは夫を振り仰いだ。
「ふう。さっそくバレちゃったわね」
「……すまないね、騒ぎを起こすつもりはなかったのだが……」
 サマエルは眼を伏せた。
「ううん、平気よ。それに、知ってるのはあの人と、船長さんだけなんだから、大丈夫でしょ」
「それもそうか。ともかく、ようやく船に乗れたね」
「うん、いよいよね! なんか、ドキドキするわ!」
「そうだね、まずは着替えようか」
気を取り直したサマエルは、ぱちりと指を鳴らし、衣装を普段着に取り替えた。
 ジルもそれに倣(なら)い、二人はソファに座って一息ついた。
 そうこうしているうち、出航を知らせる銅鑼(どら)が鳴り響いた。
「あ、船が出るよ、ジル」
「うん」
 甲板に出たいところだったが、再び人々の好奇の目にさらされることを考えると、気が重い。
 二人はこのまま、船室の丸窓から出航風景を見守ることにした。
「ああ、ファイディーが遠くなってゆくわ……弟も、このお船に乗せてあげたかったなぁ……」
 ゆっくりと遠ざかる、生まれ故郷を眼にするジルの口調は、珍しくしんみりとしていた。
「そういえば、まだ教えてもらっていなかったな、キミの弟の名前はなんて言うの?」
サマエルが尋ねると、ジルは可愛らしく小首をかしげた。
「あれ、言ってなかったかしら? フォンスよ。古い言葉で、泉って意味なんだって。 お母さん、森に水汲みに行って、泉のそばで弟が生まれちゃったの」
「それは大変だったね」
「うん、お母さんの心の声が聞こえたから、急いでお産婆(さんば)さん連れて行ったんだけど、間に合わなかったのよ。 でもお母さん、そんなに慌ててなくて、産湯(うぶゆ)の代わりに泉で赤ちゃん洗ってたわ。夏だったし」
「たくましいね、うらやましいよ」
「そう? 近所の村にはお産婆さんがいなかったから、あたしの村からお産婆さんが行く間に、一人で産んじゃう人がいたわよ、結構」
「……そうなのか……ああ、喉が乾いたな、お茶でも飲もう」
 サマエルはさりげなく話題を変え、ぱちりと指を鳴らして、ティーセットを出した。
 お茶をすすり、二人がくつろいでいるところへ、ノックの音がした。
「どうぞ」
「失礼致します」
 きびきびと入室してきたのは、プルース航海士だった。
 彼は一礼して言った。
「おくつろぎのところ、お邪魔致しまして申し訳ございません。 実は船長に報告しましたところ、ぜひお二人を晩餐(ばんさん)にご招待したい、とのことでして」
「分かった、喜んでご招待をお受けするよ」
 そんなことだろうと思っていたサマエルは、よどみなく返答をした。
「ありがとうございます」
 プルースはまた頭を下げ、続けた。
「ご昼食はいかがなさいますか? 食堂もございますが、ルームサービスも致しております。 メニューはこちらに」
 航海士は、部屋に備え付けてあった、革に金箔押しの立派なメニューを、サマエルに渡した。
「ああ、決めたら連絡する」
「かしこまりました」
 プルースは、退室していった。
「船長さんと、晩ご飯食べるの? どんな人かなぁ、船長さんて」
 ジルは首をかしげた。
「さてね、不快な人物でないことを祈るのみだ。 まあ、いいさ。付き合いは今日だけにしてもらうから」
「お山にいたときには全然分かんなかったけど、すごい有名人なのねー、サマエルって」
 彼女はくすくす笑った。
「私は大した事はしていないのだが、噂が一人歩きしているのだろう。 そんなことより、ようやく二人きりになれたね、ジル……」
 妻を抱き寄せ、サマエルは、そのみずみずしい唇に口づけた。
“昼食は、自分達で出せるからいいと、断ろう……”
“うん……”

       ◇第7回

 ◆∽‥────────────────────────────∽◆

 やがて日が落ち、プルースが迎えに来て、二人は船長室へ向かった。
「船長、お客様をお連れ致しました」
 航海士がノックし、返事を待って、船長室の扉を開ける。
「ようこそおいで下さいました。 お初にお目にかかります、トルレンス号の船長、フォルティス・スミスと申します」
 立ち上がって二人を出迎えたスミス船長は、想像以上に好人物だった。
 年の頃は四十半ば、漆黒の髪に同じく黒い眼をし、海の男らしく肌は日に焼けて、たくましい体つきをしているのが、船長の白い制服の上からでもよく分かる。
「初めまして、サマエルです。こちらは妻のジル」
 サマエルは船長と握手を交わし、妻を紹介した。
「ジルです、初めまして。どうぞよろしく」
「こちらこそ、よろしく」
 差し出されたジルの手にキスした後、スミスは深々と頭を下げた。
「本日は、我が船の乗務員が、たいへん失礼を致しました。 わたくしの監督不行き届きです、まことに申し訳ございません」
「いや、済んだことです、どうぞ、もうお気になさらず」
「ありがとうございます」
 スミスは顔を上げた。
「そう言って頂くと、わたくしも肩の荷が下ります。 名高い賢者様を本船にお迎えできるとは、まったくもって望外の幸運……ですのに、あのようなことで、ご気分を害されるようなことがあっては……」
「いや、彼から聞いていると思いますが、私のことは内密にして頂きたいのですよ。 せっかくの船旅、無用に騒がれたくないのでね」
 プルースに椅子を引いてもらい、ジル共々席に着きながら、サマエルは念を押した。
「おお、無論、それは心得ております。レシフェ・アラディア……様でしたな。 さて、堅苦しいあいさつはここまでにして、晩餐を始めましょう。 プルース」
 船長の合図を受けた第一航海士は、隣室へつながるドアを開ける。
 二人の給仕達が現れて、泡立つ透明な食前酒(アペリティフ)を全員のグラスに注いだ。
「では、お二人の末永いお幸せを祈って」
 船長がグラスを手に取り、掲げる。
 サマエルが言葉を継いだ。
「航海の安全を願って」
「乾杯!」
 皆がグラスを干し、プルースも船長の側の席に着いたところで、海の幸をふんだんに使った豪華な料理が、テーブルに並べられた。
「お口に合うか分かりませんが、どうぞお召し上がり下さい」
「では、頂きます」
 サマエルはスミスに軽く会釈し、食事を始めた。
「美味しそうですね。頂きます」
 ジルもしとやかに、それに倣(なら)う。
「いかがですか、アラディア様方が普段お食べになっているものよりは落ちるとは思いますが、本船の料理長が腕をふるったものです」
 スミスがにこやかに言った。
「十分美味しいですよ。 私も今は、以前ほど贅沢はできておりませんし、かしこまって頂かなくとも結構ですから。 何しろ私は、身分違いの恋に身を焦がし、あげく国を出奔(しゅっぽん)した元貴族に過ぎません、レシフェとお呼び下さい」
 料理を運んで来た給仕達に、わざと聞かせるようにサマエルは答えた。
 これはある意味において真実であったし、あまり嘘がうまくないジルでも、抵抗なく夫について話せるだろうと、出発前にあらかじめ打ち合わせていたのだ。
 それに出航時の騒ぎで、自分達のことは、船内のいいゴシップのねたにされるだろう。
 そのこと自体は構わないが、何かの拍子でサマエルが“賢者”であるなどと判明したが最後、二人きりの静かな旅が台無しになってしまいかねない。
 しかし、真実よりも信じ込みやすい嘘の情報を、先につかませることができれば、人はそれ以上詮索はしないものだ、ということを彼はよく知っていた。
「レシフェ様、そのようにご謙遜(けんそん)なさらずとも。 たとえどんな身分の方であろうと、大切なお客様には違いありません。 では、わたくしのことも、フォルティスとお呼び下さい」
 スミスは答えた。
 さすがは人の上に立つ船長、一瞬でサマエルの意図を見抜いたのだろう、何も訊き返さずに話を合わせた。
 こうして、サマエル達はスミス船長と打ち解けて、まるで旧友と食事をしているような、楽しい時間を過ごした。
 夜も更(ふ)け、満ち足りた気分で部屋に戻ると、ジルは言った。
「素敵な船長さんだったわね」
「そうだね……でも、私とどっちが素敵かな?」
 少々不安げに、サマエルが問いかける。
「そんなの言うまでもないじゃない! あなたよ!」
 ジルは夫に飛びついた。
 二人はお休みのキスを交わし、別々のベッドで眠りについた。

 翌日。
 船長との会食に力を得たサマエルは、思い切って、夜毎船内のホールで催されている舞踏会へ、ジルを連れて出かけてみた。
 初日の出来事、そして狙い通り、給仕達から流された噂によって、乗客達の好奇心は高まっていたから、二人は大いに歓迎された。
 特に女性達の関心は、元貴族という触れ込みのサマエルに集中し、ダンスに誘われることもしばしばで、四、五回に一度は断り切れずに、相手をする羽目になった。
 しかし、踊っている最中も彼の視線は妻から離れず、話し掛けてもどこか上の空で、女性達を落胆させた。
 それでも、一度は彼と踊ってみたいと願い出る女性は、引きも切らない。
 そこでサマエルは一計を案じ、ダンスの相手から少々精気を頂くことにした。
 無論、命に関わるほどではなく、少し体がだるくなったり、眠くなったりするくらいの量である。
 それはすぐに功を奏した。
 興奮し過ぎたか、それとも、ワインをいつもより飲み過ぎたのかもしれない……などと首をかしげながら、部屋に引き上げる女性が徐々に出始め、彼の周囲に群がる女性達の数は、確実に減っていく。
 それに比例して、ジルの方も、なかなか人気を博するようになっていった。
 彼女と話すうち、男女の別なく、その飾り気のない性格に皆魅せられていき、いつの間にか人々の輪の中心にいることとなっていた。
 サマエルのことは信頼し切っていたので、彼が誰と話し、踊っていようと気にする素振りは見せず、ただ彼が踊りながらでも自分を見ていることに気づくと、手を振って微笑んで見せるのだった。
 彼女の心配は、夫が人ごみで気分が悪くならないか、それだけだったが、今のところそれもなさそうで、やはり旅行に来てよかったと改めて思っていた。
 忙しく頭を働かせ、刻々変化する状況に対処すること、それが夫の憂鬱を吹き飛ばす最良の方法なのだと。
 だが、サマエルの正体に気づいた者は、プルースの他にもう一人いたのだ。 しかも、後者の方が、より正確に。

          *        *         *

 三日目の晩、舞踏会にて。
「わたくしと踊って下さいませ、レシフェ……様」
 その声に顔を上げたサマエルが息を飲んだのは、その女性の美しさのためだけではなかった。
 目の前に立っていたのは、魔族の女性だったのだ。
 長い金髪、海の青の瞳、それに映えるドレスをまとい、真珠のアクセサリーをふんだんにつけている。
「よろこんで……」
 サマエルは驚きを顔には出さず、手を差し出した。
 彼女の手が、湿り気を帯びてひんやりとしている他は、ほぼ人間そっくりで、この女性が魔族であることに気づいた者は、彼の他にはいないようだった。
 この頃、魔界へとつながる次元回廊はすでに封鎖されていたが、中には人界に残ることを選択した者もいたから、どこかで魔族に出くわすことがあっても、何ら不思議はなかった。
 ただ、自分が魔族の第二王子であるということが、この女性の口から漏れてしまっては、“賢者”であることが露見するよりも、一層困ったことになってしまう。
 しかし、サマエルは人族との混血であり、今は外見に手を加え、魔力もかなり抑えている。
 そのため、気づかれていないのではと思ったが、それはやはり甘かった。
 美女は、軽快にステップを踏みながらも彼を見据え、念話を送り付けて来たのだ。
“やっとお会いできました、サマエル殿下。お怨(うら)み申し上げますわ”
“……怨むとは、穏やかではないね。 私が何か、キミに悪いことでもしたのかな? 覚えがないが”
 サマエルは首をかしげた。
 事実、この女性に、まったく見覚えはなかったのだ。
 すると女性は、マリンブルーの瞳で彼を睨んだ。
“わたくしにではございません。 ですが、あなた様はひどいお方です……わたくしの主人にした仕打ちを思えば”
“……キミの主人? 誰のことだね?”
“わたくしは、ヴェパル様配下の者。 そう申せば、お分かりになりますでしょう”
“……!”
 一瞬、サマエルは言葉を失った。
 驚きを隠し切れずにいる彼に、畳み掛けるように彼女は言い続けた。
“主人は……ヴェパル様は、こともあろうに、殿下が人族の娘と婚儀を執(と)り行ったという話を聞いて以来、ショックのあまり、ずっと、臥(ふ)せっております。
 それがまことのことなのか、何度も確かめに行こうとしては、主人に止められ……それでもついに、ワルプルギス山まで参りましたが、あの特殊な結界には、わたくし達は触れることも叶わず……。
 それでも諦め切れずに、使い魔に見張らせておいた甲斐がありました。
 先日、あなた様が結界をお出になったと、知らせが……それでようやく今日、探し当てたのです、 この船に、あなた様がいらっしゃることを……”
“……そうだったのか。 本当のことだよ、ご覧の通りね”
 気を取り直したサマエルは、最愛の妻の方へ視線を向けた。
 彼の眼差しに気づいたジルは、微笑んで手を振って来る。
 それを眼にした美女の瞳に、怒りが燃え上がった。
“殿下は、本当に、本当にひどいお方です。 ヴェパル様はすべてを投げ打って、魔界を出奔されたあなた様を追い、その後も献身的に尽くして来られたのに……。 それもこれも、あなた様を信じておられたからですわ、なのに殿下は、以前は神族の女……さらに今度は、あんな人族の小娘などに心をお移しになり、あげく婚姻とは……! 一度ならず二度までも、ヴェパル様をないがしろに……”
“ちょっと待ってくれないか。それではまるで、ヴェパルと私との間に、何か約束事でもあったかのようだ”
 この美女は、勘違いをしている。そう思った彼は、相手の言葉をさえぎった。
“この期(ご)に及んで何を仰います、殿下とヴェパル様は、魔界にいらした頃から……”
 サマエルは、念話に苛立たしげな響きを持たせた。
“そう、たしかに私と彼女とは長い付き合いだ。 だが、魔界にいたときから、私達は、お前が考えているような間柄ではなかったのだ、帰ってヴェパルに確認してみるがいい。 ……それに、恨み言を私に言う権利があるのは彼女だ、お前ではないよ”
 それを聞いた美女は、激昂(げっこう)して叫んだ。
“慎み深いあのお方が、恨み言など口に出せないのは、ご存知でしょうに! そんな不人情なことを仰るのでしたら、わたくし、あなたの正体を、今、この場で……人間達の前で暴露致しますわよ! この方はサマエル、賢者……とは名ばかり、その正体は魔物……それも魔界で幾多の罪を犯し、追放された罪人であると!”
 しかしその刹那、サマエルの紅い瞳に闇の炎が燃え上がった。
 それを眼にした彼女は、思わず息を呑み、それ以上続けられなくなった。
“言いたければ、言ってみるがいいさ。どうなるだろうね……”
 王子の声は、凪(な)いだ海のように静かだったが、その奥に恐ろしい力を秘めていた。
 女性の手を持ち、支える腕には力はこもっておらず、踊りにもまったく乱れがない。
 表情さえも優しげなままなのが、かえって彼女の恐怖心を煽(あお)った。
“く、口封じに、わたくしを……こ、殺す、おつもりですのね。 ですが、たとえ、わたくしを殺しても、あ、あなた様の罪は消えませんわ……。
 また一つ……罪を重ねると仰るのですか、でも、わ、わたくしは、ヴェパル様のためなら、この命に代えても……”
 気丈に言い返す美女の、顔色は蒼白で、体は小刻みに震えていた。

       ◇第8回

 ◆∽‥────────────────────────────∽◆

 すると、サマエルは眼を細め、紅い唇には酷薄な笑みが浮かんだ。
 そういう表情をすると、彼は、魔界の王である兄、タナトスに生き写しになる。
“そう、私はたしかに罪人だ。 だがお前、私が夢魔だということを忘れていないか? お前を殺す必要などない……私の正体を知った者達を、一晩、夢の世界で眠らせればいいだけだ。……翌朝には、何一つ覚えてはいないだろうさ”
 サマエルは、冷ややかに言ってのけた。
“──ひどい!”
 かっとした美女は、彼をたたこうとした。
 サマエルはその手を捕らえ、女性の青い瞳を覗き込んだ。
 王子の紅い瞳の奥に揺らぐ黒い炎が、さらに昏(くら)さを増して輝く。
“──お眠り。そして、今の私との会話は、すべて忘れなさい。 お前が追ってきたレシフェ・アラディアという男は、サマエルではなかった。 妻を娶(めと)ったばかりの小太りの商人で、使い魔は相手を間違えたのだ。 眼が覚めたら、人間達に気づかれないよう船を下り、ヴェパルの元へ還りなさい。 もう二度と、私につきまとい、怨みつらみを言い立てようなどと思わないこと。 それよりも、落ち込んでいる主人を慰め、元気づける方に力を注ぐのだ、いいな”
“はい……”
 暗示を掛けられた美女の体から力が抜けて、ぐったりと彼にもたれかかる。
 人々のざわめきの中、サマエルは彼女を優しく抱き上げて椅子まで運び、給仕係に声をかけた。
「キミ、こちらのご婦人がご気分を悪くされた、休ませてあげてくれないか」
「はい、かしこまりました」
 この航海が始まってから、サマエルと踊って具合を悪くした女性は一人や二人ではなかったので、給仕係も大して驚きもせず、てきぱきと救護室に運ぶ手はずを整える。
 少しざわついた周囲の人々も、すぐに平静に戻った。
 そうしておいて、彼は一人、甲板へと出てきた。
 潮風が、熱くなった頭を冷やしてくれ、手すりにもたれかかって彼はつぶやいた。
(……ヴェパル、か……。 そういえば、彼女には結婚のことは言っていなかったな。『わたしは、あなたに何も求めません』と、言ってくれてはいたのだが……。“自分の好意に付け込み、利用するだけ利用して捨てた、ひどい男”、そう思われても仕方ない……)
 うなだれて過去の女性に思いを馳せる彼に、近づいていく影があった。
「……サマエル」
 その声に顔を上げると、ジルが立っていた。
「ああ、ジル、……」
“さっきの人と、何かあったの?”
 甲板には、酔いを醒ます人影がちらほら見受けられたので、彼女は念話で尋ねた。
 サマエルは一瞬ぎくりとしたものの、答えた。
“……鋭いね。 彼女は魔族の女性で、私の正体を暴露するなどと脅迫めいたことを言うものだから、暗示を掛けて私のことを忘れさせたのだよ”
“そう……”
 ジルは眼を伏せた。
 妻の声には、疑念が含まれていた。
 それを感じた彼は、真実を話す決心をした。
 いくら隠したところで、ジルはそれを敏感に察知し、かえって傷つくだろうと思ったのだ。
“正直に言おう。私は昔、彼女の主人……ヴェパルという女性から、精気をもらっていたのだよ。 魔界にいたときもだが、人界に来てからもね……。 普段は普通の食事をしていても、やはり私はインキュバス、女性の精気なしには生きられないから、何年かに一度はどうしても……。 以前、キミを置いて出かけて、タナトスと留守番をさせたことがあっただろう? あのとき、彼女の元に行ったのだよ……キミはまだ子供だったし、それに魔族の女性の精気は強力で、人間のものをもらうよりも長期間、我慢できるから……。 だが、結婚してからはもう、彼女とは何もないよ。信じてもらえるかどうか、分からないが……”
 夫が最近その女性に会っていない、というのは本当だと、ジルには分かった。
 結婚直後、サマエルは、決して嘘をつかないと約束してくれていたし、寝るとき以外は彼女の側をほとんど離れた事もない。
 たとえ彼が、夜こっそり出て行ったとしても、自分は確実に気づいただろう。
 それでも、ジルは訊かずにはいられなかった。
“サマエルは……その女の人と、一緒の……お布団に寝てたのね?”
“ああ”
 サマエルは、彼女を見ないまま、肯定した。
“じゃ……じゃあ、サマエルもタナトスみたいに、もうお父さんなの……?”
 ジルは、恐る恐る尋ねた。
 彼にもすでに子供がいて、それでもう赤ん坊はいらないと思っているのではないかと、考えたのだ。
 しかし、サマエルはかぶりを振った。
“いや、彼女との間だけでなく、私には子供はいないよ。 できなかった……というより、作らないようにしてきたのだ……ずっと”
 意外な言葉に、ジルは栗色の眼を見開いた。
“えっ、どうして?”
“キミも知っている通り、母は私を産んだせいで死んだ。 そして、イシュタル叔母上も流産し、命が危ぶまれたこともあった。 だから、私は……女性が身ごもることに、恐怖すら感じてしまうようになって……。 それに……こんな自分の血を引く子供を、作っていいものかという思いもあったし……”
 ジルは小首をかしげた。
“女の人が妊娠したら、死んじゃいそうな気がする、ってこと?”
“そうだね”
 サマエルはうなずき、それから眼を伏せた。
“……この際だから言ってしまうが、魔界の後宮には、私に精気をくれる、ヴェパルのような女性はたくさんいたよ。 しかし、彼女達との間に、子供を作る気には、どうしてもなれなかったのだ……”
“で、でも、妊婦さんが皆、死んじゃうわけじゃないわ。 普通は赤ちゃんを産んでも死なないし、何人産んでも、全然元気なお母さんもいるんだから”
“人界ではそうだね。 魔界では子供の出生率は低く、妊婦の死亡率は高いけれど……。 それにね、私も、頭では分かってはいるのだ……でも……”
 サマエルは、首を横に振った。闇に同化した長い髪が、さらさらと揺れる。
“それであたしと、一緒のベッドで寝てくれないのね。 赤ちゃんの話が出ると、話を逸らしちゃうのもそのせい?”
 ジルは、弟のことを話したときのサマエルの様子を思い出していた。
“……気づいていたのだね。 すまない、ジル。私は夫として失格かもしれない……妻であるキミに、赤ん坊を抱かせてあげられる自信がない……情けない男だ、私は……”
 サマエルはうなだれた。
“大丈夫よ、あたし、すごい元気だもん。 それにね、あたし、一度死んじゃってるでしょ。赤ちゃんが出来て、それでもし死にそうになることがあっても、きっと、アイシスさん……じゃなかった、お義母さんが助けてくれるわ”
 ジルは励ますように言い、彼の顔を覗き込んだ。
“そう……だろうか”
“うん。きっと大丈夫よ”
 彼女はにっこりしたが、サマエルは顔を上げられず、かすれた声で答えるのがやっとだった。
“……すまない。もう少し、時間をもらえないだろうか……”
“うん、あたし、待ってる。だから、離れて行かないでね、サマエル。一人にしないで”
 ジルは、ぎゅっと彼の手を握った。
 そうしないと、夫がこのまま、姿を消してしまうような気がしたのだ。
“ああ、ずっと一緒にいるとも。 約束するよ、どこにも行ったりしないから……”
 そう答えるサマエルは青ざめ、その手は、氷のように冷え切って、小刻みに震えていた。
 何かを始めようとするたびに、ひどい抵抗感が彼を支配する。
 どこかから、自分を嘲(あざけ)る声が聞こえてくるような気さえしてくるのだ……お前のような者が、誰かを幸せにすることなどできるはずがないと。
 サマエルは歯を食いしばり、その声に耳を傾けないよう努めた。
 ジルと一緒になる前、そして夫婦となってからも、様々な障害を克服して来たではないか。
 彼はそう自分に言い聞かせ、今回も何とかして乗り越えようと思った。
 自分のためというより、妻のために。
 もう無理だから、屋敷に帰ろうと告げることも出来た。
 そう言ったところで、心優しい妻は、決して自分を責めないと知っていた。
 しかし、今逃げ出してしまったら、ジルは途中で終わってしまった船旅の続きを思うだろう。
 夢と消えた、南の島の明るい陽射しの下、砂浜で波と戯れたり、涼しい木陰のハンモックで揺られながら、夫と語らう……そんなささやかな楽しみを。
 巨大樹に吊り下げられた月のブランコに乗りながら、あるいは山の花畑で花を摘みながら、屋敷の窓辺で空を見上げるたびに。
 それでも彼女は、そんな思いを心の奥に隠し、楽しげに振舞い続けることだろう。
 一人でいるときはどんなに悲しい顔をしていても、それを他人には見せず、いつも笑顔を絶やさずにいる、ジルはそんな女性だった。
 今にして思えば、彼女は、夫のいない一人ぼっちの寝室で、淋しさをかこつ夜もあったのではないだろうか。
 弟子と師匠の関係だったときは、当然寝室も別だったが、今は条件が違う。
 結婚後もそうしているのは、言うまでもなく不自然なことだった。
 赤ん坊をあやす夢を見ながら眠る夜や、淋しさに枕を濡らす長い夜を、妻に過ごさせてしまっていたことに、自分は、気づかずにいたのではないだろうか……。
 そう考えると、サマエルは、自分の体を切り刻んでしまいたい衝動に駆られた。

        *        *         *

 彼は、その日を境に、暗い顔をして考え込む事が多くなった。
 これではいけないと、ジルは、努めて夫を外へ連れ出すことにした。
 誰かに会えば考え事は中断されるし、明るい日の光や潮風が、彼を憂鬱(ゆううつ)から解放してくれるのではないかと思って。
 すると期待通り、徐々にではあったがサマエルの表情は明るさを取り戻し、ジルは安堵した。

 航海が始まって九日目、甲板に出て行った二人は、船長がマストに登っていることに気づいた。
 ジルは両手を口に当て、遥か上方のスミスに声を掛けた。
「船長さーん、何をしているんですかー!?」
 スミスは片手を離し、彼女に向かって手を振って見せた。
「帆の張り具合を確認しているんですよ!」
 それから、スミスはもう片方の手も緩ませて、一気に下まで滑り降りて来た。
「わあ、すごい!」
 眼を丸くするジルの側で、サマエルも驚きを口にした。
「ほう、見事なものだ、さすがは海の男、慣れていらっしゃる。 しかし、なぜ船長ご自身が、マストにまでお登りになるのですか?」
 するとスミスは、少し照れたように頭をかいた。
「いや、時々は体を動かしませんと、なまってしまいますからな。 それに、荒っぽい海の男達を束ねるためには、座って命令を出しているだけでは駄目なのですよ。 やはり、みずから行動して見せなくては」
「なるほど、……」
 サマエルは額に手を当て、眩しげにマストを見上げた。
 こうしている間にも、風を一杯に孕(はら)んだ帆が、頼もしげにこの船を、外国へと運んでいる。
 そんな彼に、スミスは声をかけた。
「レシフェ殿、わたしごときが、あなたにこんなことを申し上げるのは、僭越(せんえつ)かもしれませんが」
「そんなことはありませんよ、どうぞ、何でも仰って下さい」
 サマエルは微笑んだ。
 その顔は、ここ数日間における葛藤(かっとう)で少しやつれていたが、美麗さが損なわれることはなく、それどころか、一層美しさを増したようにさえ、感じられる。
 これほどの美貌の持ち主が、実は男性だということに、スミスは改めて驚かされていた。
「──いや、こほん」
 船長は軽く咳払いをし、その思いを振り払って話し始めた。
「レシフェ殿。 嵐の時には、たしかに船は、岩陰に避難などして、嵐が過ぎ去るのを大人しく待たねばなりません。 しかし、凪(なぎ)のときには……風が吹くのをただ待っているだけでは、前には進めませんぞ。 みずから櫂(かい)を取って漕ぎ出さなくては、目的地に着くのが遅れるばかりではなく、最悪の場合、難破してしまいますからな」
「スミス船長……?」
 サマエルがはっとすると、スミスは、日に焼けた顔をほころばせた。
「いや、何にせよ、奥方に暗い顔をさせるのはどうかと思いましてね」
「そうですね……ご助言、痛み入ります」
 彼の慧眼(けいがん)に敬意を表して、サマエルは頭を下げた。

       ◇第9回

 ◆∽‥────────────────────────────∽◆

 ファイディーのカミーニを出港して、十日が過ぎた。
 本来なら船は今日、目的地であるメリーディエスに着いているはずだったが、途中で積み込むはずの荷が遅れたため、到着が一日伸びることとなった。
 しかし、天候に左右されがちな船旅では、予定が遅れることなど、珍しくもない。
 また、渡航日程等や規約が書かれた小冊子にも、天候その他のため、多少の遅延が出る場合があると明記してある。
 そして、トルレンス号の乗客達は誰一人、旅を急いでいる者はいなかったから、文句を言うどころか、優雅な旅が長引くのを喜んでいるくらいだった。
 それはサマエルとジルにも言えることで、明日で終わってしまう船旅を、二人は惜しむ気持ちにすらなっていた。
「もうすぐ、お船から降りなくちゃいけないのね、もっと乗っていたかったなー」
 テーブルに頬杖をつき、ジルはいかにも名残惜しげに言う。
 サマエルは微笑んだ。
「大丈夫だよ、帰るときに、もう一度乗れるから」
 途端にジルは顔を輝かせ、手を打ち合わせた。
「あ、そっか! 帰りもこのお船?」
「さあ、別な船に乗るのもいいかも知れないね」
「うん。でも、もうすぐメリーディアスに着くのよね。どんなとこなのかしら、すっごい楽しみだわー」
 切り替えの早いジルは、早くも未知の国に思いを馳(は)せている様子だった。
「きっと、とてもいいところだよ」
 うきうきした妻を見るサマエルの胸に、喜びがじわじわと寄せてくる。

 その晩。
 明日でトルレンス号での旅も終わるというので、彼らは再びスミス船長から、晩餐に招かれた。
「いよいよ最後ですね。お名残惜しいですよ、船長」
 船長室に入るなり、サマエルは言った。
「わたしもです。レシフェ殿、奥方様。 今宵は特別料理を用意させました、さ、どうぞおかけになって、ご堪能(たんのう)下さい」
「ありがとうございます」
 二人は席に着き、船長とプルースとの会話と、豪華な食事を楽しんだ。
 やがて、自室に引き取った二人は、いつも通り別々のベッドに入った。
 ジルはすぐに眠りに落ちたが、サマエルは眼を閉じたものの、眠り込みはしなかった。
 しばらく待ち、妻が安らかな寝息を立て始めたのを確かめてから起き上がり、そっと部屋を抜け出す。
 かなり夜も更けて、見張り以外は皆寝静まり、波音だけが響いている。
 ワルプルギスでは見られない星達で一杯の夜空には、三日月も顔を出していた。
 漆黒のローブに身を包んだサマエルは、夜陰(やいん)に紛れて音も立てずに船内を移動し、やがて再び船長室の前に来た。
 小声で呪文を唱え、部屋に侵入する。
 滑るようにベッドに近づき、手をかざした、そのとき。
「誰だ!」
 眠っているとばかり思っていたスミスが、素早く跳ね起き、彼の手を捕らえた。
 弾みでフードが脱げ、月明かりが、サマエルの白い顔と紅い唇を照らし出す。
「……さすがですね、船長。強盗もこうやって捕らえたのですか? あなたが眠っている間に、事を済ませてしまいたかったのですけれどね」
「──サ、サマエル殿っ!? い、いや、わ、わたしは、だ、男性に興味はありませんよっ!? だ、第一、あなたには、お、奥方がおいででしょう……!」
 真夜中の艶(あで)やかな訪問者には、さすがに驚きを隠せず、スミスの声も上ずっている。
 サマエルは苦笑した。
「いえ、勘違いなさらずに。残念ながら私は、あなたと同衾(どうきん)しに来たのではありませんよ」
「で、では、何を? 金目の物なら、ここよりも、あなたの部屋の方が……」
 スミスは、空いている方の手で部屋を示した。
 彼の意向なのだろう、船長室は、取り立てて装飾されてもおらず質素だった。
 サマエルは、否定の身振りをしかけて、やめた。
「私は……いや、そうかも知れないですね、それも、普通の盗人よりも始末が悪い。
 なぜなら私は、あなたの記憶を盗みに来たのですから……」
「な、何ですと!?」
 スミスはまたも面食らって叫び、まじまじと彼を見つめたが、ふと我に返ったように息をつき、彼を解放した。
「……何か、深い仔細(しさい)がおありのようですな。そちらにどうぞ。 ともかく、落ち着いて話しましょう」
 スミスは椅子を指差す。
「はい」
 相手の冷静さに感服しつつ、サマエルは一礼して、腰掛けた。
「わたしの記憶を盗みに来た、そう仰ったが……」
 一息ついて、船長は尋ねた。
「はい。正確には、私とジルに関することだけ、記憶を入れ替えると言った方がいいでしょう。 あなたが会ったのはサマエルではなく、小太りの商人、レシフェ・アラディアとその妻だった、と……」
 スミスは首をかしげた。
「それはまた、なぜに」
「……それは……」
 一瞬サマエルは目線を下げたが、すぐに相手の眼を見つめ、答えた。
「あなたを守るためです」
「わたしを……守るため?」
「はい。私には強大な敵がいるのです。 あなたが私に関わったと知ったなら、敵はあなたを捕らえ、拷問にかけてでも、私に関することを引き出そうとするでしょう。 しかしあなたの性格からすると、たとえ殺されようとも、決して口を割らない……違いますか?」
「ええ、わたしは、友人を売るつもりはありませんよ」
 スミスは逡巡(しゅんじゅん)なく、うなずいた。
「……やはり。 ですが、偶然船に乗り合わせた一介の客のために、勇敢で有能な方を死なせたくはありません。 そのためには、記憶を消すのが一番、そう思いました。 勝手なことを……と、お腹立ちかも知れませんが、連中は敵対する者には容赦しません。 過去、私の同胞達は悲惨な目に遭わされて来ました……無関係な方を巻き込むのは心苦しい……」
 サマエルは眼を伏せた。
 船長は、眉を上げた。
「……同胞? あなたはひょっとして、魔族なのでは?」
「さすがですね、お察しの通りです。 それゆえ敵とは、神族……遥かなる太古、我々を襲い、故郷を奪った憎き宿敵……。 連中は神を詐称(さしょう)しつつ、密かに暗躍し、人界をも、陰から支配しようと目論んでいるのです。 人族はそれを知らず、奴らをまともな神と思い込んで、崇(あが)めていますが……」
「ふむう。初めて聞く話だ」
 スミスは唸(うな)った。
 サマエルは肩をすくめた。
「連中は巧妙ですからね。人族の女性をさらい、それを我らのせいにしていた時期もありました。 ……奴らは種としての限界に来ているようで、子が産まれにくくなっているのですよ。 しかし人族との混血は成功率が低く、最近はもっぱら、魔族を拉致するようになっていますが」
「ど、どうして、声を大にして言わないのです? 人々は騙されていると」
「国王陛下はご存知ですよ。ただ、一般には公表していません。 それはあなた方、人族を守るためです」
 スミスは眼を見開いた。
「……また、守るためと仰る……?」
「はい。魔界は、強力な結界で守備を固めています。 人界に残っている魔族は、相当の覚悟を決めており、自力で防御もできます。 ですが人族では、魔法使いは少数派……自分の身も守れないのに真実を教えても、かえってパニックを起こし、人界が滅茶苦茶になってしまうかも知れません。 しかし、とりあえず我らが悪者になっていれば、そうしたことは起きませんから……」
「なぜ、そうまでして我々を……?」
「詳しく話している暇はありませんが、魔族は人族に対し、償(つぐな)い切れない負債を負っているのです。 真実を知れば、あなた方は、我々を敵とみなすことでしょう。 ──さあ、これで私の話は終わりです。 力ずくでも、記憶は書き換えさせて頂きます、野蛮な魔物とさげすんで頂いて結構です。 たとえ一時でも、私を友人と呼んで下さったあなたの身を守るためなら、私は、鬼にでも悪魔にでもなりますよ」
 サマエルの眼には、決然とした光が宿っていた。
 それから彼は、船長に向けて手を広げた。
「他の人達の記憶もすべて、置き換えます。 ただ、あなたの記憶は、念入りに処置しようと思い、忍んで来たのです」
「……記憶を置き換える」
 スミスはつぶやいたが、騒ぎ立てることはなく、穏やかに問い掛けた。
「記憶障害が残ったりはしないのですな?」
「ご心配なく、私は夢魔の王子、夢を完全に制御できます」
 サマエルは請合った。
「……ほう、あなたは王子なのですか」
「ええ。私の兄は魔界の王ですから」
「なるほど。道理で、あなたの面差しは高貴だと思いましたよ。 しかし、夢魔は悪夢を見せ続け、死ぬまで人間の精気を絞り取ると聞きますが……?」
 それに答えるサマエルの瞳は、悲しげだった。
「嘆かわしいことに、そういう輩(やから)がいることは事実です。 ですが、私は王子、魔界王家の誇りにかけて、決してそのようなことは致しません。 ごく少量の精気と引き換えに、二度と目覚めたくないと思うほどの、極上の夢を差し上げますよ。 ……何か、お望みの夢はありますか?」
「望み……?」
 スミスはしばし考えた。
「特にありませんね、わたしは他力本願(たりきほんがん)は好みませんので。 いや……たった一つ、見たいものがある……かも知れません」
「何ですか? 遠慮なさらず、仰ってみて下さい」
「あなたと奥方の、真実幸せそうにしていらっしゃるところ……ですかな。 できることなら、お二人のお子様も、見てみたいものです。 記憶を消されるのでは、覚えていられないのでしょうが、それでも……」
 意外な答えに、魔族の王子は息を呑んだ。
「なぜ?」
 スミスは、遠くを見るような目つきをした。
「わたしにも、かつて妻と子がおりました。が、私が航海に出ている間に、病気で死にましてね。 それに懲りて、再婚する気はありません……ただ、遠く離れていて、どうしようもなかったわたしと違い、あなた方はいつも一緒においでだ。 ですから……その、わたしの代わりと申し上げては失礼ですが、幸せになって頂ければと……」
 少し照れたような船長の言葉に心を打たれ、サマエルは声もなくうなだれてしまう。
 ややあって、彼は気を取り直した。
「……では、ご希望通りに致しましょう。 ですが、それには真の姿に戻る必要があります。 スミス船長、驚かないで下さい、これが私の本性(ほんしょう)です……。 ──ディス・イリュージョン!」
 彼は呪文を唱え、変化(へんげ)した。
 窓から差し込む月の光に浮かび上がる、魔族の王子の姿。
 人によっては、恐れ、逃げ惑うだろうと思われる、一匹の魔物がそこにはいた。
 闇色だった髪は、一筋、紫に輝く部分がある、銀粉を振り撒いたような白となり、額に飾られていた緑の宝石は紫へと色を変え、その下には、鋭く闇を切り裂く純白の角が一本、背には、コウモリに酷似した漆黒の翼が、マントのように広がっていた。
 しかし、そんな彼をじっくりと眺めたスミスは、しみじみと言った。
「ふうむ、古代の神殿に刻まれた浮き彫りのような、風雅な趣(おもむき)がありますな……」
 サマエルは、緩やかに首を横に振った。
「見かけに騙されてはいけませんよ」
「いや、わたしは、人を外見では判断致しませんが、相手が悪人かどうか見分ける自信はあります。 あなたが、わたし達に危害を加えることはあり得ないでしょう」
 スミスが断言すると、魔族の王子の紅い瞳に、微妙な影が差した。
「何を以(も)って“悪”というのですか、スミス船長。 私が害を与える気はなくとも、あなた方が被害をこうむることもあり得るのですよ。 たとえば……海は悪意など持っていませんが、激しい時化(しけ)に見舞われれば、船は沈んでしまいます。 相手が害する意思を持っていることと、実害を受けるかどうかは、無関係かもしれません」
 スミスは額に手を当てた。
「ふむ、たしかにそうですが……」
「あなたは何もご存知ない、そしてその方が幸せです。 さようなら、スミス船長。お眠り下さい、そしてよい夢を……。 明朝、目覚めたときには、あなたにとって私とジルは、存在しない者となっていることでしょう。 しかし私達は、決してあなたを忘れません……ありがとうございました」
 サマエルは深々と頭を下げた。
「では、サマエル殿、さようなら、お幸せに……」
 返礼し、ベッドに戻った船長は、一瞬で眠りに落ちた。
 サマエルは、彼に向かって念入りに呪文を唱え、安らかな寝顔をしばし見つめた。
 それから、再度礼をし、船長室を後にした。

       ◇第10回

 ◆∽‥────────────────────────────∽◆

 船長室から甲板に上がると、サマエルは深く息をついた。
 さすがに南国の夜、真夜中だと言うのに、吹き付ける風も暖かい。
 見上げる星空には、嘲(あざ)笑う口のような月が掛かっていた。
(……笑うがいいさ。私は、自分が間違っているとは思わない。 偽善者とそしられようと、もうこれ以上、人界で血が流されるのはたくさんだ)
 彼は手を一振りし、トルレンス号全体に結界を張った。
 これは空間を閉じることで魔法の効率を高めると共に、天界の看視者に発見されることを防ぎ、さらに嵐や海賊の襲撃等から今宵一晩、客船を守るためのものでもあった。
(極上の夢を編むとしよう。 今まで誰も見たことがなく、これからも見ることができないほどの最高級の夢を。 フォルティス・ナーハフォルガー・スミス……この船はあなたの城、そしてあなたは城主。 ならば、頂戴したもてなしにふさわしい、飛び切りの夢のお礼をさせて頂きますよ)
 サマエルは、人々の心の底に眠る願望に沿った夢を見続けることができるよう、そして、万が一にも悪夢が潜り込んだりしないよう、意識を集中させた。
「──エニュプニオン!」
 唱えた瞬間、夢魔の王子の眼は、頭上に輝く星々に負けない光を宿した。
 船内の人々は一斉に彼の術中に陥り、特別製の夢を見始める。
 そのとき彼は、マストの上の狭い見張り台から、眠りこけた船員が転げ落ちそうになっていることに気づいた。
「……おや、いけない。 ──デー・ス・ペル!」
 魔法で静かに下まで降ろし、甲板に寝かせる。夜気は暖かく、風邪を引く心配もなさそうだった。
 それから、熟睡している男の耳元にそっとささやく。
「よい夢を」
 サマエルは今度こそ、ほっと息をついた。
 夜が明けたらジルを起こし、下船しようと考えていたが、それにはまだ間がある。
 少し横になろうと思い、彼は嘲笑する月に背を向けた。
 波音だけが聞こえる船内を忍び足で歩き、部屋まで戻って来たとき、彼はぎくりと足を止めた。
 扉の前の暗がりに、白い影が立っていたのだ。
 まさか幽霊か、それともまたヴェパルの部下がやって来たのかと身構えた瞬間、相手はいきなり、彼にしがみついて来た。
「サマエル! もう戻って来ないかと思ったわ!」
「──ジル!? 眠っていたのでは……」
「急に眼が覚めたの!
 そしたら、あなたがいなかったから、置いていかれちゃったかと思って……」
 ジルはしゃくりあげた。
「そんなわけはない、約束したろう? 私はずっとキミといるよ」
 サマエルは、優しく妻を抱きしめた。
「でも、どこに行ってたの、こんな時間に?」
 涙に濡れた顔を上げ、ジルは問い掛けた。
「皆の記憶を消しに行っていたのだよ」
 間髪いれず、サマエルは答えた。
 どの道、朝起こした後、その話をしようと思っていたのだ。
「えっ、どうし……」
 彼女は一瞬眼を見張ったが、すぐにうなずいた。
「あ、そっか、ミカエルやなんかのせい?」
「そう。天界との争いに、スミス船長を始め、無関係の人達を巻き込みたくなかったからね」
「うん。いい人だものね、彼」
 涙を振り払い、ジルは笑みを浮かべたが、サマエルは暗い顔をした。
「キミはやはり、ああいうタイプが好みなのか……」
「え?」
「日に焼けてたくましいものね、彼は。 きびきびしていて、決断力もあるし、私とは対極にあるような人だ……」
 眼を伏せて、彼はつぶやく。
ジルは、きょとんとした。
「何言ってるの? 船長は何となく、あたしのお父さんに感じが似てるの。それだけよ」
「そう……」
 本心から言っていると知りつつも、サマエルは心が騒ぐ。
 彼女はにっこりした。
「ねぇ、それってひょっとして、焼きもち?」
「え、い、いや、……」
 図星を刺されたサマエルは、どぎまぎした。
「あ、紅くなった、やっぱりね! 大丈夫よ、あたし、サマエルの方が好き。世界で一番大好きだから、心配しないで!」
 輝くような笑顔で保証されては、彼の疑惑も霧のように消えてしまうしかなかった。
「分かったよ、ジル。 さ、もう一眠りしよう、夜明け前に起こすから。その頃には、メリーディエスに着いているだろう」
「うん!」
 おてんばな少女のように、元気よくジルはドアを開ける。
「お休み」
「お休みなさーい」
 布団に入ったものの眠れず、落ち着きなく身じろいでいたジルは、大きく息を吸い込むと、夫に声をかけた。
「あ、あのね、サマエル……」
「なんだい?」
「そっちに行っていい?」
「えっ!?」
 サマエルは眼を見開いた。
 窓から差し込む月明かりで、思い詰めたような妻の表情が見て取れる。
 しかし彼は、その思いを受け止めることができなかった。
「……す、済まない、ジル、私は……」
「いいの。無理言ってごめんなさい」
 くるりと彼女は背を向けた。
 夫婦となって何年も経つのに、妻としては扱ってもらえない。
 再び涙がこみ上げてきたが、彼女は夫に気づかれまいと、嗚咽(おえつ)を噛み殺した。
 それでもサマエルは、妻の背中が、かすかに震えていることに気づいた。
(過去にこだわって、愛する人をこれ以上泣かせていいのか、しっかりしろ)
 彼は自分を叱咤(しった)し、それから口を開いた。
「ジル。では私が、そちらへ行くよ」
「えっ!?」
 慌てて涙をぬぐうジルの隣に、彼は体を横たえる。
 彼女は、大喜びで夫に身をすり寄せた。
「よかった。サマエル、大好き」
「ああ、私もだよ」
 彼の手を握ったジルは、それだけで安心し、一瞬で眠りに落ちた。
「……ジル? おやおや……」
 寝息を立て始めた妻に、サマエルは拍子抜けした。
 このままでもいい、今すぐ真の夫婦になってしまおうかとも思った。
 しかし、やはり起きているときの方が、愛を確かめ合えていいだろう、そう思い直す。
 まだ時間はある。
 それに正直なところ、彼の心には、彼女を抱かなくて済む事に対する安堵の感情も、少なからずあったのだ。
(……なぜ自分は、ジルと結ばれることを、これほどまでに躊躇(ちゅうちょ)してしまうのだろう。 一緒にいると、こんなにも幸せだというのに……)
 妻の安らかな寝顔を見つめ、サマエルはつぶやく。
 魔界の王家という特殊な環境のせいもあり、彼の家庭は、到底温かいものとは言いがたかった。
 そのため彼は、ジルと本当の家族になってしまったら、せっかく今まで築き上げた彼女との生活が崩壊し、冷たく刺々しいものになってしまうのではないかと、無意識に怖れていたのかもしれない。
 家庭や家族というものに対する、彼の不信と絶望感は、それほどまでに深かったのだ。
「愛しているよ、ジル」
 サマエルはそっと、妻に口づけた。
「うーん、サマエル……」
 眠ったまま、ジルは微笑んだ。

        *        *         *

 数時間後、月が西に沈み、水平線が明るみ始めた。
 サマエルは、妻を揺さぶった。
「ジル、ジル? もう夜明けだよ。甲板に出よう、綺麗な朝日が見られるよ」
「う~~~ん」
 寝起きの悪い彼女は、もぞもぞ動いたものの、また眠りに戻っていこうとする。
「ほら、起きて。メリーディエスに着いたよ」
 再び彼が揺らすと、今度こそジルはぱちりと眼を開けた。
「えっ、着いたの!?」
「ああ、荷物をまとめて外に出よう」
「うん!」
 彼女は飛び起き、さっと魔法で着替え、荷物を持って階段を駆け上がる。
「危ないよ、夜明けにはまだ間があるから」
「平気よ!」
 ジルは叫び返し、甲板に飛び出していった。
 サマエルは微笑み、名残惜しげに室内を見回す。
 それから呪文を唱え、人がいた形跡を消すと、彼は階段を上って行った。
 甲板ではジルが、床で眠る男を不思議そうに見ていた。
「サマエル、こんなところで寝てる人がいるわよ」
「ああ、昨夜、見張り台から落ちそうだったので、私がここに降ろしたのだよ。 だが、もう間もなく“夢”も消える。元に戻そう。 ──スプラー!」
 サマエルは呪文を唱え、船員を見張り台に運んだ。
 それが済むと、ジルは手すりに駆け寄り、暗い海に身を乗り出した。
「ね、メリーディエスはどこ?」
「すぐそこだよ。……ああ、まだ暗いから、キミには見えないか」
「ふーん、お日様、早く出ないかな~」
「もうそろそろだと思うけれどね」
 空と海との境目が、ほのかに明るみを帯び始めていて、黎明(れいめい)も近いと思われた。
 太陽の光が当たれば、彼が船の周囲に張った結界は淡雪のごとく消えて、同時に夢魔の世界もまた、もろくも崩れ去り、ごく普通の夢へと置き換わる。
 そして辺りがすっかり明るくなり、目覚めたとき人々は、彼とジルについては何一つ覚えていないだろう……ただ、とてもいい夢を見たような気がするという、あいまいな記憶が残るのみで。
「そうだ、ジル。 島影が近づくのをゆっくり見物していたいところだけれど、姿を見られてはまずいし、どうせなら今すぐ向こうに上陸して、日の出を見たらどうだろう」
 サマエルが提案すると、ジルは眼を輝かせた。
「それがいいわ、行きましょ!」
「──ムーヴ!」
 すぐさま移動呪文を唱えた二人は、念願叶って、ついに南の島に降り立った。
「……ふう。これでようやく、メリーディエスに着いたねぇ」
 サマエルは、肩の荷を下ろしたように息をつく。
「ホント。でも、素敵なところよね……」
 ジルはうっとりと、周囲を見回す。
「本当に、別天地だ……」
 サマエルもつぶやく。
 辺りは徐々に明るくなり始めていたが、さすがに夜明け前のこんな時間には、浜辺にまったく人影はない。
 足元には広がる白い砂、海岸沿いにヤシの木がずらりと並び、浜風にざわざわと緑の葉を揺らしている。
 同じ海のそばでも、ファイディーのカミーニとは、景色は無論、消えゆく星座や夜明け前の空の色、そして吹き付けてくる潮風の匂いまでもが異なっていて、彼らは別の国に来たことを実感していた。
 その後は二人共無言のまま、待つことしばし、紺碧(こんぺき)の水平線から、ついに黄金の煌きが顔を出した。
「キレイ……」
 感無量な様子で、ジルはそれに見とれる。
「ああ、本当だ……」
 そう言いながら、サマエルは朝日よりも、妻の横顔を眩しく感じていた。
 砕ける波に黄金の姿を映し、力強く昇っていく太陽を見ながら、彼らはどちらからともなく手を取り合い、寄り添って、しばらく二人だけの世界に浸り込んでいた。
 そうして、すっかり夜が明け切ってしまうと、急に気温が上がり始め、人影もちらほらと目に付くようになって来る。
「……あまり暑くならないうちに宿を探して、朝食にしようか……」
「うん……」
 名残惜しげに彼らは浜辺を後にし、繁華街の方へ足を向けた。
「さて、今度はどんな宿に泊まりたいかな、ジル」
 気を取り直して、サマエルは尋ねた。
「えっと……そうね、ずっと豪華な感じで来たから、今度は普通な感じのところに泊まってみましょ」
「それはいいが、窮屈だったのかい、船は」
「ううん。でも、今度は普通がいいの」
「では、そうしよう」
 話をしているうちに、活気あふれる通りへと二人は出た。
 たくさんの人がひしめき、物売りの声や、客引き達の呼び声が、にぎやかにこだましている。
「……カミーニ以上のにぎわいだな。離れ離れにならないように、手をつなごう」
「ホント、すごい人ね」
 ジルは、サマエルの腕にすがりついた。
「お客さん、今夜の宿はお決まりで?」
 さほど歩かないうちに、目ざとく客引きが寄って来た。
 男は、こざっぱりとした身なりをしており、人がよさそうな顔つきをしていたが、サマエルは一応警戒しつつ、答えた。
「いや、まだだが、あまり高くない宿を探していてね」
 洗いざらしの木綿のローブを着て、日差しよけにフードをかぶった二人は、さほど金を持っているようには見えなかったのだろう、男はうなずいた。
「じゃあ、ちょうどいいですよ、ウチはお値段手頃で、景色もいいし、食事も美味い。 お客さん達にはぴったりだ」
「遠いのかい?」
 サマエルは訊いてみた。
「いえ、すぐそこです。 それにちょうど今朝早く、団体さんが出立したばかりなんで、今ならお好きな部屋を選べますよ。 ……えっと、ご兄妹でしたら、部屋は別で?」
「まあ、あたし達、夫婦よ。新婚旅行に来たところなのに」
 ジルが、ぷうっと頬を膨らませる。
 男は頭を下げた。
「こ、こりゃあ、失礼しました。お詫びに、一番景色のいい部屋をご用意しますよ」
「それはありがたいが、宿を見てから決めたいね」
 サマエルは言った。
「じゃ、ご案内します、どうぞ」
 客引きは、先に立って歩き出した。

       ◇第11回

 ◆∽‥────────────────────────────∽◆

 客引きの言葉通り、さほど歩かずに、彼らは宿に着いた。
「さ、ここですよ。どうです、なかなかでしょう?」
 自慢げに、客引きは宿を示す。
「……ふむ、たしかにね」
「ホント、いい感じ」
 二人が想像していたより、宿の程度はかなりよかった。
 と言っても中の上、といったところだろうか。
 木造の三階建て、さほど古びてもおらず、看板にはピンと尻尾を跳ね上げた人魚の絵と、『おてんば人魚亭』と、これもまた活きのいい書体で宿の名前が書かれている。
「ここでいいかな、ジル」
「うん」
「じゃ、決まりということで!」
 二人が合意に達したと見るや、客引きはがらりと扉を開け、宿中に響きそうな大声を張り上げた。
「おかみさん、二名様、ご案内ー! 新婚さんだから、一番眺めのいい、角部屋をご希望だよー!」
 ジルは真っ赤になった。
「な、何もわざわざそんなこと、大きな声で言わなくなっていいじゃない!」
「へ? ああ……そんなもんっすか。どうもすみません」
 さほど悪びれた様子もなく、客引きは頭をかいた。
 そのとき、まるまると太った宿の女主人が奥から飛び出して来たかと思うと、男の頭を勢いよく小突いた。
「──まぁたお前は! 一言多いんだよ!」
「痛ってぇ、姉さん、ひどいよぉ」
 客引きは涙目で頭を抱える。
「おかみとお呼び!」
 女主人は男を睨みつけ、それから二人に頭を下げた。
「すみませんねぇ、お客さん。
 エルマーはまだ子供なもので。これでも、十七になったばかりなんですよ」
「ええっ、あたしより年下なの、この人!」
 ジルは驚いて叫ぶ。
 体つきもたくましく、背も高い。おまけに態度も大きいために年がいって見えるが、この客引きはまだ少年だったのだ。
「ええ、あたしとエルマーは年が離れた姉弟でしてね。 あたしの子供だって言っても通るくらいなんですよ」
「なるほど……さっき、私達のことを兄妹だと言ったのは、そのせいかな」
 サマエルが言うと、おかみは目を見張った。
「まあ、そりゃ重ねて失礼なことを……」
「だから、姉さん、一番眺めのいい部屋を用意するって約束して、来てもらったんだよぉ」
 頭をさすりながら、客引きの少年が口を挟む。
「おかみとお呼びって言ってるだろ! そうでしたか、もちろん、お部屋はご用意させて頂きますよ。 ……あ、その前にお名前を、ここにお願いします」
「ああ」
 おかみが差し出すペンと宿帳を受け取ったサマエルは、すらすらと二人分の署名をした。
「ええ……ジル様とレシフェ・アラディア様ご夫妻、と。 ご一泊でよろしいですか?」
「……いや、まずは三泊としておこうかな。気に入ったら、予定を伸ばそう」
「分かりました。 ──そら、エルマー、ぼさっとしてないで、お二人を三階の角部屋にご案内するんだよ!」
 おかみは少年を急かした。
「はあい、姉さ……じゃなかった、おかみさん。 お客さん、荷物は俺が持ちますんで。さ、こっちへどうぞ」
 少年は、体に見合った力もあるようで、サマエル達の鞄を軽々と持ち上げ、先に立って階段を上り始めた。
「さ、この部屋ですよ。 ──ほら、ここからの眺めが一番いいんだ!」
 鍵をがちゃつかせてドアを開け、荷物をベッドの側に運んだエルマーは、勢いよく窓を開け放った。
 刹那、南国の風が部屋に吹き渡る。
 眺望もたしかに素晴らしく、ついさっき二人がいた海岸線が一望できた。
「素敵、いい景色ねー」
「本当だね……そうだ、私達は朝食がまだなのだが、この宿では何がお勧めかな?」
 窓から振り返り、サマエルは少年に訊いた。
「ええと……名物って言えば、サシミ、かな。 魚の切り身を生で食べるんです。すごく美味いですよ。 毎朝、漁師が獲って来た活きのいい魚を、食堂のでっかい水槽に入れといくんです。 そっから、食べたいのをお客さんに選んでもらって、料理するんですけど」
「……しかし、生の魚とは、……」
「──あたし、それがいい!」
 躊躇(ちゅうちょ)するサマエルに代わり、ジルが元気よく答えた。
「……私は別のものをもらおう。白身魚のマリネはあるかな」
 少年はうなずいた。
「もちろん。あ、部屋に持ってきますか、それとも食堂で?」
「あたし、水槽が見たいわ。お魚を選べるんでしょ」
「そうだね。おかみさんとちょっと話もしてみたいし、荷物を解いたら下りてゆくよ」
「はい、じゃあ、姉さんにそう伝えときますから」
 エルマーは頭を下げ、どたどたと部屋を出て行った。
「さて、と……」
 二人きりになると、サマエルは木綿のローブを脱いだ。
「ジル、私は、またちょっと外見を変えてみたのだが、どうかな」
 彼は、船に乗っていたときよりも服装のグレードをかなり落とし、黒い綿のズボンと生成りのシャツ、という出で立ちだった。
 そして、髪と瞳は以前と同じ黒と青だったが、抜けるように白かった肌色だけが浅黒く変化していた。
「あれ? いつの間に、そんなに日に焼けたの、サマエル」
 彼同様、ローブを脱いだジルは、可愛らしく首をかしげる。
 船旅で少々日焼けした彼女は、白地に紅い花柄の庶民的なワンピースに着替えていた。
「一緒に旅をしているのに、私だけ肌が白いのは変だろう? それで、少し色黒にしてみたのだが……」
「うん、素敵! サマエルは、色が黒くっても綺麗ね」
 ジルはうっとりと、彼を見上げた。
「そう……かな」
 サマエルは眼を伏せた。
「ええ!」
 ジルは力を込めて同意したが、すぐに続けた。
「でも、やっぱり目立っちゃうわね……どんな格好してても、サマエルは王子様……ううん、お姫様みたいなんだもん」
「それは困るね……」
 彼はため息をついた。
 王子ならまだしも、姫君というのでは。
 美しさ……それは、特に旅先では目立つだけでなく、様々なトラブルを呼び込みやすいということを、彼はよく知っていた。
 非力な女性の二人連れなどと勘違いされたら、人さらいにまで目をつけられかねない。
 旅の間は極力魔法を使わず、魔法使いであることも伏せていよう、そう二人は申し合わせていた。
 というのも、国によっては、魔法使いを万能の神のように思い込んでいる場合があり、せっかく二人きりでいたいのに、あまりにも大げさに歓待されたり、無茶な頼み事をされたり等、色々とわずらわされる恐れがあったのだ。
 そのため、無用なもめごとは、なるべく避けたいと彼らは考えていた。
「──そうだ、思いきって髪を切ってみたら? さっき見たけど、メリーディエスの男の人達は皆、髪が短いみたいじゃない」
 暑さのせいだろう、ジルの言う通り、道を行き交う男達は、大部分が髪を短く刈り込んでいた。
「なるほど、短髪……それもいいかも知れないね。やってみようか」
 妻の提案にうなずき、サマエルは、ぱちんと指を鳴らした。
 背中の中ほどまであった黒髪が、一瞬で耳が隠れるくらいの長さになる。
 それを見たジルは、眼を輝かせた。
「──あ、イイ! その方が、男っぽくてカッコイイわ!」
「……そうかい?」
 サマエルはうれしそうに、短くなった髪に触れてみる。
「うん。それなら、女の人に間違えられっこないわよ。 ──カンジュア! ほら、見て」
 ジルは鏡を呼び出して、彼に渡す。
 自分の容姿を好まないサマエルだったが、こうして鏡に映してみると、色が黒くなったお陰で健康的に見えるということもあり、髪を長くしていたときよりも数段、自分が男らしく感じられた。
「……たしかにそうだね」
 思わず彼の顔から笑みがこぼれる。
 しかし、ジルは首をかしげた。
「でもまだ、王子様って感じよね……少なくとも、漁師さんとか、農家のお兄さんみたいには見えないわ」
「困ったな……。 仕方ない、私のことは、ちやほやされて育った裕福な商人の御曹司(おんぞうし)……つまりお坊ちゃんだな、そんな風に思わせようか、宿の人達には」
「……信じてもらえるか、すっごく怪しい気がするけど。 ま、やってみるしかないわね。 それよりお腹すいちゃった、早くご飯食べましょうよ」
「そうだね」
 二人は連れ立って階段を降りて行った。
 食堂は一階の奥だった。
 エルマーの言った通り、大きな水槽が置いてあり、色とりどりの熱帯産の魚が泳いでいる。
「あ、お魚がいっぱい!」
 ジルが叫ぶと、数人いた客が振り返り、思わず感嘆の声を上げた。
 庶民的な格好をしているとはいえ、サマエルの美貌と貴族的な雰囲気は、隠しようもなかったのだ。
 カウンターの向こうにいるおかみまでもが、ぽかんと口を開けて自分を見ていることに気づくと、彼は自分の格好を見下ろした。
「……ローブを着て来るべきだったかな、やはり」
「そんなことしたら、また怪しまれちゃうわよ。堂々としてた方がいいわ」
「そう……だね。 ともかく、魚を選ぼうか、ジル」
「うん、……でもこんな綺麗なお魚食べるの、ちょっと可哀想……」
 ジルは、水槽で元気よく泳いでいる魚を目で追った。
「では、パンだけにするかい?」
 サマエルが尋ねた途端、腹がぐうと鳴り、彼女は紅くなった。
「……キミのお腹は、本当に正直だね」
 彼はくすくす笑った。
「……もう。いいわ、やっぱり食べるから。 ねえ、おかみさん、サシミで美味しいお魚はどれ?」
「……え、ああ、はい、サシミでしたね」
 問われたおかみは我に返り、ようやくサマエルから視線を外した。
「ええと……この魚はどうですか? 生でも、煮たり焼いたりしても美味しいですよ」
 気を取り直したおかみは、華麗に泳ぐ、掌くらいの大きさの紅い魚を示した。
「じゃあ、それにするわ。サマエルは?」
「では、私も、同じ魚でマリネをお願いするよ」
「はい、じゃあ少しお待ちを」
 網を手に取り、おかみは水槽から魚をすくい上げた。
 ぴちぴち跳ねる活きのいい魚を、手際よくおろしてゆく。
 そして皿に盛りつけ、ジルの前に置いた。
「はい、サシミですよ。このタレとスパイスを少しつけて食べてみて下さい。 パンよりもライスに合うんですけどね、食べてみます?」
「じゃ、それで」
 おかみがマリネを作っている間、ジルはスプーンでご飯を食べ、そして切り身をフォークに刺し、小皿に入った黒いタレと、緑のペースト状のスパイスをたっぷりつけて、口に入れたのだが……。
「──か、辛いっ!」
 一声叫んで彼女はフォークを放り出し、鼻を押さえ、涙をぽろぽろこぼした。
「だ、大丈夫かい、ジル!?」
 慌てて妻にハンカチを渡すと、サマエルは、おかみに言った。
「水を下さい、早く……!」
「はい、お水」
 おかみも急いでコップに水を汲み、ジルに渡す。
「お客さん、このワサビはとても刺激が強いから、小指の爪の先くらいの量でいいんですよ」
「は、はやく言ってよ、そういうことは……!」
 ジルは水を一気飲みした。
 コップをカウンターに置き、大きく息をつく。
「……あー、鼻につーんときたわ……強烈ね、このスパイス……」
「そんなに辛いなら、別なものを頼もうか?」
 サマエルが訊くと、ジルは否定の身振りをした。
「ううん、もったいないわ。これ、ちょっとだけつけたら、いいんでしょ」
「そうです、ほんのちょっぴりで」
 おかみはうなずく。
 そこでジルは、今度は米粒ほどのワサビをつけて、恐る恐るサシミを口に運んだ。
 刹那、その顔に至福の表情が浮かぶ。
「……どうだい?」
 心配そうに尋ねる夫に向けて、彼女はにっこりしてみせる。
「ええ、大丈夫。すごく美味しいわ!」
「そうでしょう。慣れるとやみつきになりますよ、サシミは」
 自慢げにおかみは言った。
「ね、サマ……ううん、レシィも食べてみない? とっても美味しいから」
「えっ、いや、私は……」
 ためらう彼に、ジルは、フォークに刺した切り身を差し出す。
「はい、あーんして」
 妻に、こんな風に食べさせてもらうことなど、初めてだった。
 サマエルは、思い切って口を開けた。
 生の魚ということは考えずに、よく噛み、味わってみる。
「……どう?」
 訊いてくる妻に、彼は微笑み返した。
「とても美味しいね。 ……なんというか、こりこりとした食感もいいし、魚本来の甘味が口に広がって……生の魚が、こんなに旨いとは思わなかったよ」
「言うことが通ですねぇ、お客さん。はい、お待ちどうさま」
 おかみは感心したように言い、湯気が立つ魚のマリネをサマエルの前に置く。
「では、今度は私がキミに……」
 彼は、できたての料理を一口大に切り分け、フォークですくった。
「あーん」
 可愛らしく口を開ける妻に、彼は、少しときめきながら食べさせる。
「……どうかな?」
「うん、これも美味しいわ」
「そう。よかった」
 二人は見つめ合い、笑みを交わす。
「……やれやれ、さすが新婚さん。ご馳走様だわこりゃ」
 おかみはつぶやき、苦笑した。

       ◇第12回

 ◆∽‥────────────────────────────∽◆

 異国情緒あふれる食事を終えると、サマエルは言った。
「ごちそうさま。 さて、私達は一寝入りするよ。今朝、船が、とても早く着いたのでね」
 彼自身は大して眠気を覚えてはいなかったが、妻の方は空腹が満たされると共に、何度もあくびを繰り返していたのだ。
「ええ、ええ、新婚の方々は、皆さん必ずそう仰いますとも」
 おかみは、訳知り顔にうなずき、にっこりした。
「昨夜も遅かったんでしょう、どうぞごゆっくり。 ああ、ウチのベッドは丈夫な作りですから、音は静かですよ」
「……え? あたし、そんなに寝相悪くないわよ」
「──さ、行こう、ジル」
 きょとんとした顔の妻を促し、くすぐったい思いをこらえながら、サマエルは階段を登る。
 部屋に戻った彼らは、用心に越したことはないと考え、結界を張ることにした。
 天使にしろ人間の賊にしろ、寝込みを襲われるのはごめんだった。
 船の時には、魔法使いの航海士が乗り組んでいたお陰で、その心配だけはなかったのだが。
 そうしておいてベッドに入ると、思いの外、疲れていたのだろう、ジルの寝息を聞くまでもなく、サマエルもすぐに寝入ってしまった。

       *        *        *

 先に眼が覚めたのは、サマエルの方だった。
 隣のベッドを見ると、妻はまだ夢の中にいた。
 その寝顔をしばし眺めて幸せな気分に浸った後、彼は出かける旨のメモを残し、音も立てずに部屋を出た。
 結界を確かめてから、階下へと降りていく。
「おや、だんなさん、お目覚めで。奥さんは?」
 おかみが声をかけて来た。
「まだ寝かせておくよ、疲れているようだから。 私は、ちょっと裏の砂浜を散策してみたくなってね」
「そうですか、お気をつけて」
「ああ」
 風が心地よく吹き抜ける砂浜を、サマエルは麻のローブをまとい、歩く。
 すでに午後も遅くなっていて、日は翳り始め、昼間より過ごしやすくなっていた。
 表の喧騒(けんそう)も、ここまで海に近いと、潮騒(しおさい)にかき消されてしまう。
 時々立ち止まっては、彼は浜風を胸一杯に吸い込み、どうすれば妻を幸せにできるかを考えた。
 とっくに答えは出ているのに、未だ踏ん切りのつかない自分を情けなく思いながら、どれくらい歩き続けたのか、サマエルは、前方から話し声が聞こえて来ることに気づいた。
 魔族である彼は、かなり遠くの物音や姿を捉えることができる。
 眼を凝らすと、一本だけぽつんと離れたヤシの木陰に、一組の男女がいるのが見えた。
 恋人同士なのだろう、笑いながら何事かを話していた二人は、彼には気づかないまま、やがて見つめ合い、口づけを交し、そして……。
(……やれやれ、まだ日も沈まないうちに、人目もはばからず)
 サマエルは眉をひそめ、フードを深くかぶり直して、踵(きびす)を返した。
 それでも、あんな風に情熱に任せて、ジルを抱くことができたら……とも思う。
 彼が普通の男だったなら、とっくにそうしていたはずなのだが。
 気晴らしに散歩に出たはずなのに、自分の不甲斐なさを思い知らされてしまったようで、彼は、余計に気分が沈んだ。
 重い足取りで宿に帰ると、おかみと話し込んでいたジルが、すぐ彼に気づいて飛びついてきた。
「お帰りなさい、レシィ! 行き違いになるかなって思って、待ってたの」
「すまない、遅くなって……」
 サマエルは、思いを込めて妻を抱きしめた。
 ジルは微笑み、否定の仕草をした。
「ううん、今、起きてきたばっかりよ」
「……そう。ジル、外は涼しくなっているよ。あちこち見てみないか」
「うん!」
「行ってらっしゃいませ!」
 元気なおかみの声に送られて、彼らは宿を後にした。
「あ、あれは何? これは?」
 どこを見ても、何を見ても珍しく、ジルは指差してサマエルに訊く。
 彼が知っている物もあったが、やはり初めての土地、分からない物の方が圧倒的に多かった。
 小腹が空いた彼らは、屋台の食べ物を買ってみた。
「これ、美味しいわね!」
「そうだね」
 二人は眼を見合わせて微笑み、にぎやかな通りを進んでいく。
 そのときだった。
 彼らの幸福な時間を、粉々に打ち砕く出来事が起きたのは。
「──見つけたわ! わたしの王子様! もう離さないから!」
 道の真ん中にうずくまっていた女性が、突如大声を発し、彼に抱きついて来たのだ。
「きゃっ、何?」
 ジルがびっくりしたのは当然だが、妻を除き、人との接触を極端に避けて来たサマエルは、息が止まるほど驚いた。
「──な、何だ、キミは!?」
「まあ、ひどい、王子様、わたしを忘れたの!?」
 女性は顔を上げ、ぎらぎらとした黒い眼で、恨めしげに彼を睨んだ。
 容姿は特段美人というわけではなく、この島の者特有の浅黒い肌、縮れた濃い茶色の髪をし、それを長く伸ばして後ろに束ね、南国の花を飾っている。
 派手な黄色い花柄の袖なしワンピースを着て、足は裸足だった。
 サマエルは必死に記憶をたどるも、まったく面識のない相手だった。
 幾度見直しても。
 女性に警戒心を抱く彼は、なるべく再度は係わらないよう、一度会った相手の顔は忘れないようにしてきたのだ。
 つまり、やましいところは何もなかったのだが、妻の視線を痛いほど感じた彼は、冷ややかに言ってのけた。
「忘れるも何も、私はキミを知らない。 大体、私は王子などではないし、人違いだ」
 しかし女性は納得するどころか、さらにぎょっとする言葉を吐いた。
「嘘つき! お妃にしてくれるって約束したじゃない!」
「き、妃だって……!?」
 サマエルは、困惑して相手を見つめた。
 ジルにさえ、『妃になって欲しい』などと言った覚えはないというのに。
“正直に言って、サマエル。ホントに知らない人なの?”
 たまりかねたように、ジルが念話で訊いて来る。
 その妻の手を握り、栗色の眼を覗き込んで、サマエルはきっぱりと答えた。
“ああ。知らない。信じてくれ。知り合いだったら、船のときのようにちゃんと話しているよ”
“それもそうね。うん、信じるわ”
 ジルはにっこりした。
 妻の笑顔に冷静さを取り戻した彼は、今度は声に出して女性に話し掛けた。
「それほど言うなら、私の名前を言ってみてくれ。 いつ、どこで会ったのかも」
「何よ、この女! わたしの王子様に馴れ馴れしい!」
 だが、彼の声が耳に入った様子はなく、女性は大声を上げ、ものすごい形相(ぎょうそう)で、二人の手を引き離そうとする。
「やめてくれ!」
 女性の手を、サマエルは跳ねのけた。
「それではキミは、名も知らない男と結婚の約束をしたのか? 大体、王子とは、どこの国の王子なのだ? これ以上言いがかりをつける気なら、女性相手でも容赦はしないぞ!」
「ああ、ひどい! ひどいわ! わたしを捨てて、こんな女に乗り換えるなんて! ──あああー!」
 女性は手で顔を覆い、いきなり大声で泣き出した。
 目つきといい、言動といい、正気だとはとても思えない。
「……ジル。どうやらこの女性は少し、頭がおかしいようだ、気の毒に。 キミ、落ち着いて。私は本当にキミを知らない、人違いだよ」
 サマエルは、女性を説得しようと試みた。
「嫌よ、今度こそ逃がさないわ! わたしを、二度も捨てさせたりしないから!」
 しかし、女性は気違いじみた力で再び彼にしがみつき、濃茶の髪を振り乱してわめき立てた。
 頭に飾られていた花が地面に落ち、紅い花びらを散らす。
「キミ、とにかく、もう一度話を……」
「嫌よ!」
 もみ合ううち、女性はサマエルのローブを引っ張り、最後にはフードをむしり取った。
 次の瞬間、四方からどよめきが起こり、同時に女性の荒々しい態度が一変した。
「ああ……美しい……やっぱりあなただわ、わたしの王子様……!」
 彼女はうっとりと彼を見上げた。
 今の騒ぎで、彼らの周りには野次馬が集まり、人垣が出来ている。
 その只中で、変装しているとはいえ、顔をさらすことになってしまったサマエルの眼に、黒い炎が燃え上がったその刹那。
「またあんたか、シエンヌ! 毎日毎日、まったく人騒がせだな、いい加減にしてくれ! どうせこの人だって、あんたの王子様なんかじゃないだろうが!」
 辺りに響き渡る大声に、はっとしてサマエルが振り返ると、長身でたくましい体つきの中年男が、人垣をかき分けてやって来るところだった。
 浅黒い肌と濃茶の髪、メリーディエス独特の服装をしており、やはり島の住人なのだと思われた。
「うるさいわね、あんたなんかに何が分かるの! この人こそ、わたしが待っていた王子様なんだから──きゃあ、何すんのよ!」
 サマエルにしがみついたまま憎まれ口をたたく女性を、現れた男は、慣れた手つきで引きはがす。
「放してよ、この馬鹿!」
「はいよっと」
 そして、手足をばたつかせる彼女を手早く地面に座らせ、男は周りの群衆に向けて声を張り上げた。
「──皆さん、聞いてくれ! この娘はちょっとココが……」
 男は、自分の頭を指差す。
「弱いんだ。外国人のイイ男を見ると、いつもこうやって抱きついて、騒ぎを起こすんだよ。 ──さ、分かったら、散った、散った!」
「な、なによ、わたしは頭がおかしくなんかないわ!」
 シエンヌは叫び、勢いよく立ち上がると、野次馬をかき分けて走り去って行った。
 それを見送り、男は、ぱんぱんと手をたたいた。
「さあさあ、もう終わりだ! 行ってくれ、通行の邪魔だよ!」
 するとようやく、人々は、ざわつきながら去って行き始めた。
 それから男は、あっけに取られて成り行きを見ていたサマエルとジルに、笑い掛けた。
「新婚さんかい? 災難だったな。 特に奥さん、びっくりしたろ? けどご主人は潔白(けっぱく)だよ、俺が保証する。 シエンヌは、誰にでも同じことを言うんだ、『あなたこそ、わたしの王子様』ってね」
「ええ、あたし、レシィを信じてるから」
 ジルも笑顔を返した。
「お陰様で助かりました。私はレシフェ、妻はジルと言います」
 サマエルが軽く会釈(えしゃく)すると、男は親指を立て、斜め後方を指した。
「俺は、すぐそこで喫茶店を開いてる、テスってもんだがね。 シエンヌがここらでしょっちゅう、ああいう騒ぎを起こすもんで、迷惑してるのさ。 ……まあ、彼女も、気の毒な身の上ではあるんだが。 半年前に、親父さんが事業に失敗したあげく死んで、屋敷も土地も人手に渡ってな。 心労からお袋さんも倒れちまって……」
「それで恋人にも捨てられちゃったの? 可哀想……」
 ジルが気の毒そうに口を挟むと、テスは否定の身振りをした。
「いや。捨てられたのは、恋人の方さ」
「え?」
 ジルが首をかしげたとき、女性が駆けて行った方角から、またも言い争う声が聞こえて来た。
「な、なんだ、この女、あっちへ行け!」
「──ああ、今度こそ見つけた! あなたこそ、あたしの王子様だわ!」
「な、なんなの、この人!?」
「くそっ、放せ、行けったら!」
「──放さないわ!」
 それは、つい今し方の、サマエル達の騒ぎとそっくり同じようだった。
 テスは、どうしようもないと言いたげに肩をすくめた。
「……あーあ、まただよ。毎日あの調子で、しかも段々酷くなってきてて、参ってるんだ。 医者を連れて来ても、シエンヌはすぐ逃げちまうし」
「ねぇ、また止めに行かなくていいの?」
 声の方を気にしながらジルが訊くと、テスは額に手を当て、遠くを見た。
「リュイが来るから大丈夫だと思うんだが……おかしいな、店の子に呼びに行かせたのに」
「その、リュイというのは?」
 サマエルは尋ねた。
「ああ、彼はシエンヌの恋人で……いや、元恋人って言った方がいいか。 彼女の親父さんが生きてたら、今頃二人は結婚して、リュイも絵の勉強を続けられるはずだったんだがね……」
「絵描きさんなの、その人。 でも、貧乏になったからって別れなくてもいいのに」
「彼女がああならなきゃ、一緒になれたんだろうが……ああ、リュイが来た。 もう俺の出る幕じゃない。 すまんが、お二人さん、俺は店に戻らなくちゃならん。 時間があったら俺の店にも来てくれよ、お茶の一杯もご馳走するから。 ここらで『テスの店』って聞きゃ分かる」
 そう言うと、テスは二人に背を向け、雑踏に紛れて行ってしまった。
「ねぇ、シエンヌを助けに行きましょ」
 ジルはそう言い、サマエルの腕を取った。
 だが彼は、いかにも気乗りしないという顔をした。
「ジル……」
“ね、サマエル、お願い! 一生のお願いよ!”
 ジルは念話を使って、夫に本名で呼びかけ、顔の前で手を合わせた。
 妻にそこまで懇願されては、サマエルも折れるしかなかった。
「……分かったよ、行こう。でも、これは彼らの問題だ。 私達が行っても、どうもできないかもしれないよ」
「でも、放っておけないの」
 ジルは真剣な眼差しで、彼を見上げた。
 サマエルは、かすかに眉を寄せた。
「……何か引っ掛かるのかい?」
「うん。よく分からないけど、このままにしちゃいけない気がして……」
「キミがそう言うなんて、よほどのことだね。 分かった。行ってみよう」
 二人は、声の方へ向かった。

       ◇第13回

 ◆∽‥────────────────────────────∽◆

「痛いわ、痛い!」
「済みません、済みません……!」
 今度の場合、抱きついた相手が悪かったらしい。
 地面に倒れて悲鳴を上げているシエンヌと、彼女をかばいながら謝っている青年は二人揃って、怒り狂った男に足蹴(あしげ)にされていた。
「ひどい、やめて!」
 飛び出そうとするジルを、サマエルは押さえた。
「キミはここにいて。私が行こう」
「ええ、お願い」
 すがるような視線を向けてくる妻を安心させようと、サマエルはうなずいた。
「すぐにやめさせるよ。 だが、ずいぶん荒っぽい男を捕まえてしまったようだね、シエンヌは」
 それから彼は、荒れ狂う男に近づいて行き、肩をたたいた。
「もうその辺でいいのでは? いくら腹に据えかねても、女性に乱暴を働くのはどうかと思いますが」
 すると男は険しい顔で振り向き、サマエルを睨みつけた。
「何だ、お前は」
「私もあなた同様、いきなり抱きつかれて驚いた者ですよ。 その女性は、お気の毒に、頭(おつむ)の方が少々……それで異国のいい男を見ると、つい、抱きつきたくなるとか。 ですから奥様、ご心配はいりません、旦那様は潔白ですよ。 あなたからも、おやめになるよう、口添えをして頂けませんか」
 サマエルは、男の隣に立つ女性にだけ自分の顔が見えるようにフードをずらし、微笑みかけた。
 夢魔である魔族の王子、その微笑の効果は、絶大である。
 女性はぽっと頬を赤らめ、夫に向かって言った。
「ねぇ、もういいわ、あなた。 この人、頭がおかしいんですってよ、可哀想じゃない。 それにわたし、あなたが浮気したなんて、思ってないわよ」
「う、……そ、そうか?」
 妻に言われて頭が冷えた男は表情を緩め、うなずく。
「ええ、もう行きましょうよ、人目もあるし」
「そ、そうだな。……ったく、縄で縛っとけ、気違い女!」
 男は捨て台詞を吐き、妻と一緒に去って行った。
「大丈夫?」
「うるさいわね、放っておいてよ、お節介!」
 ジルが差し出す手を、邪険に払いのけてシエンヌは立ち上がり、走り去った。
 サマエルは肩をすくめた。
「どうやら今の御仁(ごじん)は、身に覚えがあるようだな、やましいところが無ければ、あそこまで立腹しないだろう。 キミがリュイだね、大丈夫かい? 私達はさっき、テスさんに助けられたのだが」
「そうでしたか。大丈夫です、済みません……シエンヌは、あなた方にもご迷惑を……」
 ふらつきながらも自力で立ち上がった青年の唇は切れて血がにじみ、頬や眼の周りには、殴られて出来た青痣があった。
 一般的なメリーディエス人よりもかなり色白で、悲しげな瞳も淡いグリーンをしている。
 短い髪の色は黒かったが、島の住人とは違い、ウエーブはかかっていない。
「はい、これでお顔をふいて。血が出てるわ」
「いえ、平気ですから」
 ジルが差し出すハンカチを、青年は受け取らなかった。
「ねぇ、どうしてシエンヌは、あんな風になっちゃったの? あたしのお父さんも昔、病気で死んじゃったわ。 だから、すごく悲しいのは分かるんだけど、でも、それでどうして……?」
「お父さんが亡くなった直後は、彼女もあんな風ではなくて、それどころか健気(けなげ)に頑張ってましたよ。 もちろん、ショックは受けてましたけどね。 でも、今度はお母さんも倒れてしまって。そしたら彼女は、掌を返したように僕を避け始めて……。 そして、王子様探しに夢中になっていったんです……」
「だが、どうしてキミでは駄目なのだろうね? 恋人同士だったのだろう?」
 今度はサマエルが尋ねる。
「だって、今のシエンヌが欲しいのは、売れもしない絵ばっかり描いてる“貧乏な絵描き”じゃなくて、お父さんが生きてた頃と同じような生活を保障してくれる、“裕福な誰か”なんですよ。 貧しくても、僕は僕なりに、シエンヌはもちろん、お母さんのことだって、ちゃんと面倒を見るつもりでいたんですけどね……。 あ、僕、彼女を追いかけなきゃ。また、誰かに迷惑かけるといけないから。失礼します……」
 リュイは、拳で目蓋(まぶた)をぬぐうと一礼し、ふらふらとシエンヌの後を追った。
「……可哀想ね。リュイも、シエンヌも、お母さんも。 何かできることないかな……そうだわ、ねぇレシィ、リュイの絵を買ってあげたらどうかしら。 お金が手に入ったら、シエンヌも、彼のこと見直すんじゃない?」
 ジルは、サマエルを見上げた。
「それはいい考えだね。どうせなら、旅の記念に私達を描いてもらおうか」
「わあ、素敵!」

        *        *         *

「やあ、お二人さん、来てくれたのかい!」
 リュイの家を訊くため訪ねたテスの喫茶店は、たくさんの客で、にぎわっていた。
「テスさん、先ほどはどうも。いいお店ですね」
 サマエルの言葉に、テスは頬を緩めた。
「おかげさんで繁盛してるよ。さ、そこがちょうど空いた、座って。 メリーディエス名物の、フルーツジュースでもどうだい、よく冷えてるよ」
「はい、お願いします」
 二人はカウンター席に並んで座り、リュイに絵を頼もうと思っていることを話した。
 テスは、親指を一本突き出し、賛意を示した。
「そいつはいい、リュイの腕は確かだよ! 町長一家の肖像画を描いて町長に見込まれて、ぜひ娘の婿にって言われてるらしいぜ。 娘は美人だし、何より、生活を気にしないで絵を描いていられる。似合いの夫婦になると思うよ。 今の……少しおかしくなっちまったシエンヌと一緒になるよりか、幸せになれるだろうな」
 テスの話を聞いた二人は、顔を見合わせた。
 ともかく彼らは、リュイの家へ行ってみた。
 小ぢんまりした家からは、さほど貧しさは感じられなかった。
 庭はきちんと手入れされ、南国特有の花々が咲き誇っている。
 だがテスは、リュイが一人で働き、三人分の生活費とシエンヌの母親の薬代をまかなっているので、金は常に足りないはずだと言っていた。
 家で傷の手当てをしていたリュイに、絵を頼みたいと言うと、彼はやつれた顔を輝かせたが、すぐに眼を伏せてしまった。
「……済みません、この頃は絵の注文をお受けしてないんです……。 お恥ずかしい話ですが、絵の具も買えなくて……日雇いの仕事をして、何とか暮らしてる感じなので……」
「では、料金を前払いしよう。それで絵の具やカンバスを揃えればいい」
「ええっ、こ、こんなに!? ……いけません、こんなには頂けませんよ」
 サマエルは四枚の銀貨を出して見せたが、リュイは勢いよく首を振り、受け取りを拒んだ。
「じゃ、こうしましょ。まずこのお金を半分、あなたにあげる。 できた絵が気に入ったら、残りを払うわ。 これでどうかしら?」
 ジルが言い、リュイの顔を覗き込んだ。
「え、ええ……では」
 そこでようやく絵描きの青年は、伏し拝むようにして、銀貨を手にした。
「私達は、『おてんば人魚亭』に泊まっている。明日、道具を揃えて、昼過ぎに来てくれ」
「楽しみにしてるわ、よろしくお願いね」
 ジルはにっこりした。
「はい。ご期待に添えるよう、頑張ります」
 青年は深々と頭を下げた。
 翌日、リュイは約束通り、昼過ぎに宿屋にやってきた。
 テスが言っていた通り、彼の腕は確かで、カンバスにすらすらと下書きをしていくデッサンは狂いもなく、サマエルの高貴な美貌とジルの純粋無垢さを、正確に写し取っていった。
「さすがだね。町長一家の肖像画を書いて、喜ばれたと聞いたよ。 ぜひ婿に、とも請われているそうだね」
 一休みしてお茶を飲んでいるとき、サマエルは何気なく水を向けてみた。
「ああ、テスさんに聞いたんですね。 たしかに、町長さんの娘さんと結婚すれば、絵の学校にも通わせてくれるって言われてますよ。 ……ずっと断ってたんですけど、最近じゃそれもいいかなって、思い始めてるんです……。 結婚後も、シエンヌのお母さんの面倒を見てくれるっていうし、それよりも……シエンヌはもう、僕と話もしてくれないし、眼も合わせてくれないから……」
リュイの淡い緑の瞳は、悲しげに揺れていた。
「しかし、裕福な暮らしを望むのなら、シエンヌ自身が金持ちと結婚すればいい。 どうしてそうはせずに、荒唐無稽(こうとうむけい)な白馬の王子など、探しているのだろうね?」
 サマエルは首をかしげる。
「ああ、それは……昔、実際に会ったことがあるからですよ」
「え?」
 予想外の答えに、サマエルは眼を見開いた。
「十年ほど前に、彼女と仲のいい叔母さんがお嫁に行くことになって、彼女も式に参列するために一緒に行ったんだそうです。 そのとき泊まったオアシスで、その人を見かけたんだと言ってました」
「オアシス……では、叔母さんはファイディーに嫁いだのか」
「ええ、そうです。 皆が寝静まった夜中、その人は彼女が見ていることに気づかず、着物を脱ぎ捨てて水浴を始め……。 満月が照らし出したその顔は、この世の者とは思えないほど美しく……彼女はただ、ぼうっと見とれていたそうです。 月が雲に隠れ、再び出てきたとき、もうその人はいなくなってた……長いさらさらの銀髪に、紅い眼をして、年は二十七、八くらい……でも、人間には そんな外見の人は珍しいし、ひょっとしたら、オアシスに住む水の精だったのかも知れないと……。 その話自体は僕も何度か聞かされてて、でも、とても綺麗なおとぎ話みたいに思ってました。 彼女も、以前はそう言ってたんです。なのに今頃になって……」
 サマエルはジルと顔を見合わせ、つぶやいた。
「……長い銀髪に紅い眼、年は二十七、八……か」
「ええ。そういえば、失礼ですが、あなたはお幾つですか?」
「私? ……二十七になったところだよ」
 リュイの問いに、サマエルはよどみなく答えた。
 旅行の間は、年齢はジルの三歳年上ということにしておこうと決めてあったのだ。
「それじゃ、やっぱりあなたじゃありませんね。 髪や眼の色が違うのはもちろん、十年前には、あなたはまだ少年だったでしょうし。 でも、変だな。今までシエンヌが抱きついた人は、あなた以外は皆、銀髪だったんですが」
「……ふうむ、なぜだろうね」
 動揺を面(おもて)には出さず、サマエルはとぼけた。
「まあ、彼女の気持ちも分かりますけど。 あなたは……その、男にしておくにしては惜しいくらい、美しい方ですから……」
言ってしまってから、リュイは顔を赤らめた。
「私は男だ、男性に美しいと褒めてもらっても、あまりうれしくないね」
「あ、そ、そうですよね、すみません」
 青年は慌てて詫びた。
“サマエル、やっぱりあなたのことみたいね”
 ジルの念話を、サマエルは肯定する外なかった。
“……そうだね、見られていたとはうかつだった。 だが、私は誓って彼女には何も……”
“分かってるわ。シエンヌだって、ただ見かけただけって言ってたんでしょ”
“ともかく、白を切り通すしかないだろうねぇ、この状況では……”
 ため息混じりに、彼は答えた。
 二人が視線を交わしているところを見たリュイは、言った。
「すみません、無駄話をしてしまって。続きを描きますね」
「ああ、お願いしようか。 ところで、どれくらいで出来るものなのかな?」
 気を取り直し、サマエルは尋ねた。
「ええと……何日くらい滞在なさる予定なんでしょうか。 絵そのものは、お急ぎなら三日ほどで完成しますが、絵の具が乾くのに、やっぱり同じくらいかかってしまうので。 それでも、ここは暑いので、寒い地方の半分の期間で済みますけど」
「いや、さほど急いではいない。 キミが気の済むまで、時間をかけてくれて構わないよ。 それまで私達は、南の島を満喫するから」
 サマエルは微笑んだ。

         *       *       *

 そうして一週間が過ぎ、絵は完成した。
「素晴らしい出来だね」
「ホント、すごく上手! レシィがとっても美人に描けてるわ!」
「ジル……」
 サマエルが困った顔をすると、ジルはにっこりした。
「冗談よ。とってもカッコいいわ」
「そう。では、約束のお金を」
 残りの銀貨を支払うと、リュイもうれしそうに受け取った。
「ありがとうございます」
「そうだ、メリーディエスには他にも島があります、絵の具が乾くまで回ってらしたらいかがですか? その間、僕が絵を預かりますよ」
「素敵! 行ってみましょうよ!」
 ジルが眼を輝かせたとき。
「ここね、とうとう見つけたわ!」
 声と同時にドアがばたんと開き、シエンヌが足音も高く、部屋に入って来た。
 その手には、鋭いナイフが握られている。
「なによ、こんな絵!」
 唖然(あぜん)とする三人をしり目に、シエンヌは、いきなりカンバスを切り裂いた。
 それから、くるりと向きを変え、ぎらぎらした眼でジルを睨みつけた。
「あたしの王子様を返して!」
「やめろ、シエンヌ!」
 はっとして止めようとするリュイの手をかいくぐり、シエンヌはナイフを振りかざす。
「うっ!」
「きゃあ、レシィ!」
 しかし、その光る刃は、妻をかばったサマエルの胸に突き刺さったのだった。

       ◇第14回

 ◆∽‥────────────────────────────∽◆

“サマエル、サマエル、しっかりして! 死んじゃ嫌! 嫌ぁ!”
 パニックを起こしたジルは、サマエルにしがみつき、泣きじゃくり始めた。
“ジル、落ち着いて。 忘れたのかい、私は『紅龍』、こんなケガ程度では死なないよ”
 サマエルは、静かに言い、胸に刺さったナイフを引き抜くと、ベッドの下に投げ捨て、妻の視界から消した。
 そして心の声で優しく語りかけ、彼女の頭をなでる。
“さ、ほら、血なんてすぐ止まるから、もう泣き止んでおくれ。 騒ぎが大きくなるとまずい……医者を呼ばれたら、私の正体がばれてしまうかも知れないからね”
 その言葉に少し落ち着きを取り戻し、ジルは涙で濡れた顔を上げた。
“う、うん。でも、サマエル、ホントに死んじゃわない?“
“約束しただろう、私は、キミより先には死なないよ”
“そ、そうよね……”
 しゃくりあげながらも、ジルは微笑んだ。
「何の騒ぎだい、一体!」
 その時、悲鳴を聞きつけた宿のおかみが、どたどたと階段を登って来た。
「あ、お、おかみさん、レシフェさんが、ケガを! 急いでお医者を呼んで下さい!」
 まだ暴れているシエンヌを押さえつけ、リュイが叫ぶ。
「放して、放しなさいよ!」
「ケガ!? わ、分かったよ、すぐに……」
 事情が飲み込めないまま、ともかく部屋を出ようとするおかみを、サマエルは呼び止めた。
「待って下さい、おかみさん、医者はいりません」
「そ、そうなの、サマ……ううん、レシィはお医者はいらないの」
 ハンカチで血を止めながら、ジルもおかみに言った。
「何を言ってるんです、命に関わりますよ!」
「そうだよ、すごい血じゃないか、このままにしちゃおけないよ!」
 リュイとおかみが、代わる代わる声を上げる。
「ですが……実は、私達は、その……」
 サマエルは言いよどみ、それから素早くジルに念話を送った。
“ジル、この際だから、一芝居打って、シエンヌの興味を私から完全に引き離そうと思う。 この後、何を聞いても見ても驚かず、沈黙を守ってくれるかい?”
“分かったわ”
 それからサマエルは、声に出して言った。
「ともかく、リュイ、シエンヌをこちらへ連れて来てくれないか……私のそばに。 そうしてもらえたら、詳しく話すよ」
「えっ、駄目ですよ、危ないです、あなたを刺したのは彼女なのに……!」
「ええっ、シエンヌが!?」
 眼を丸くするおかみに、サマエルは頼んだ。
「では、おかみさん、リュイに手を貸して、彼女をここまで連れて来てくれませんか」
「……え、そりゃ、二人がかりなら、何とかなるかもしれないけど」
「お願いします」
「さあ、シエンヌ、レシフェさんが、ああ言ってるから……」
 おかみは、リュイにつかまれているシエンヌに手をかけた。
「嫌よ、放して! 放せってば、このばばあ!」
 しかし彼女は大声を上げ、さらに激しく抵抗する。
「こら、暴れるんじゃないよ!」
「シエンヌ、大人しくするんだ!」
「何すんのよ、二人がかりで! 放しなさいよ!」
“でも、サマエル、シエンヌを呼んで何をするつもりなの?”
“これ以上誰も傷つけずに、彼女に私を諦めさせるのさ。黙って見ていて”
 妻の念話にそう答え、サマエルは口の中で呪文を唱える。
 魔法が発動し、彼の胸元がわずかに光る。
 ジルは眼を丸くしたが、残りの三人が光に気づいた様子はない。

        *       *        *

「……はぁ、ほら、もう、手間を、かけさせないどくれ……!」
「レ、レシフェさん、済みません、遅くなって……」
 数分のち、息を荒げたおかみとリュイは、暴れ疲れてぐったりしたシエンヌを、引きずるようにして、床にうずくまるサマエルのそばまで運んだ。
「いえ、お手数をかけて済みませんね、お二人共。 さて、シエンヌ。私の話を聞いてくれないだろうか」
 サマエルは穏やかに、彼女に声をかける。
「何よ、あたしが刺した傷でも見せて、反省でもさせようっての? でも、あんたが悪いんでしょ、あたしとの約束を破ったんだから!」
 ふてくされたように頬を膨らませ、シエンヌはそっぽを向く。
「いや、キミの勘違いを正したいだけだよ。さあ、よく見て、私の体を」
 そう言うと、サマエルはジルに手をどけさせ、服の前をはだけて見せた。
「えっ、あんた、何よ、その胸……!?」
 シエンヌだけでなく、そこにいた全員が眼を見張った。
 血を流し続ける傷は心臓から外れていたが、彼らが驚いたのはそのせいではない。
 サマエルの胸には、豊かな女性の乳房があったのだ。
「きゃっ!?」
 注意を受けていたにもかかわらず、ジルは声を上げてしまい、慌てて口を押さえた。
 しかし、おかみは彼女の悲鳴を、むごたらしい傷口を見てしまったからだと理解した。
「……ああ、ほんとにもう、気の毒に。こんな綺麗な肌に、ひどい傷が……」
「ね、分かるかい? 私は“女”だ。だから、キミの“王子”ではないのだよ。なんなら今ここで、全身をご覧に入れてもいいけれど……痛たた」
 服を脱ごうとしたサマエルは、傷の痛みに顔をしかめる。
 リュイは真っ赤になり、眼を逸らした。
「も、もういいです、レシフェさん、早く服を着て下さい……!」
「嘘、こんなの嘘に決まってる、あんたは女に化けてるだけよっ、この嘘つき!」
 混乱したシエンヌは叫ぶ。
 しかし次の瞬間、リュイの平手打ちが、彼女の頬に飛んでいた。
「いい加減にしろ、シエンヌ! お前は、どこまで、この人達に迷惑をかけたら気が済むんだ! 初めは付きまとい、次に絵を切り裂いて、しまいには、こんなケガまでさせたんだぞ! もういい、お前にはとことん愛想がついた。 もう、お前の顔なんか見たくない、お母さんの面倒は僕が看るから、出て行け! 二度と僕の前に姿を現すな!」
 リュイは荒々しく宣言し、開けっ放しになっていたドアを指差した。
「ふ、ふん、言われなくたって出て行くわよ、この能無し!」
 シエンヌは捨て台詞を吐き、脱兎のごとく駆け出して行った。
 それを見送ったリュイは、サマエルとジルに向けて深々と頭を下げた。
「申し訳ありません、レシフェさん、ジルさん。何と言ってお詫びをしたらいいか……」
「大丈夫よ、レシィはこれくらい、平気なの。 でも、とりあえず血は止めた方がいいわよね」
 ジルはそう言い、新しいハンカチを出して重ねたが、それもまたみるみる血に染まってゆくのだった。
「そ、そうだ、医者が駄目なら、包帯と薬くらいはウチにだってあるよ、今、持ってくるから!」
 おかみは、あたふたと階下に降りて行った。
「僕も、水を汲んで来ます!」
 リュイもその後を追い、駆け出して行った。
「ね、サマエル、ホントに大丈夫なの? 痛くない?」
 二人の足音が遠ざかると、ジルは心配そうにサマエルに訊いた。
 彼は、にっこりした。
「ああ、大丈夫。動かしさえしなければ、大した痛みもないよ。 女性の力では、さほど深くは刺せないからね。 この程度の傷なら、一晩経てば消えるだろうが、あまり早く治っては怪しまれるかな」
「そう、よかった。 サマエルが死んじゃったら、どうしようかと思ったわ……」
 心底ほっとしたようにジルは言い、それから彼の胸を指差した。
「でも、それ、さっき、魔法かけたんでしょ?」
「そうだよ。それをキミ以外には悟られないように、わざとシエンヌが暴れるように仕向けたのさ。 シエンヌは昔、“裸の王子”を見たと言った。 だから、私が“女性”だと分かれば、もう付きまとって来ないだろう……とっさに、そう思いついたのだよ」
「あ、なぁるほど、さすが。 うん、これでもう、シエンヌは諦めてくれるわよね」
「そう願いたいけれどねぇ……。……はぁ。もういい加減、“女難の相”は、これっきりにしてもらいたいものだ、まったく……」
 最後の方は口の中でつぶやき、サマエルは、妻の手を借りて立ち上がって、ベッドに腰掛けた。
「あ、そうだわ、忘れてた、お薬、持って来てたんだった!」
 ジルは鞄に突進し、中身を全部放り出すようにして、傷薬を見つけ出した。
「あったわ! よかった……」
「薬がなくても大丈夫だと思うけれど……」
 言いかけたサマエルは、妻の切なそうな表情に気づくと、微笑んだ。
「そうだね、念のため、塗ってもらおうか」
「うん!」
 ジルが傷薬を塗り始めたとき、階段を登って来る音がして、おかみとリュイが相次いで、薬箱と洗面器を持って現れた。
「おや、薬はあったんだね」
「ええ、おかみさん。このお薬はとってもよく効くのよ」
「あ、僕は部屋の外にいますから」
 リュイはサマエルの方を見ないようにして、水の入った洗面器を机に置くと、すぐに部屋を出る。
「じゃ、塗り終わったらこれを巻こうかい」
 おかみは薬箱から包帯を出し、サマエルの傷を覗き込んだ。
「ほう、血はたくさん出てたけど、思ったほどひどい傷じゃないようだ。 運がよかったねぇ」
 ジルはうなずく。
「うん、ホントに。でも、一時はどうなることかと思っちゃったわ……」
 二人がかりで包帯を巻き、サマエルの血のついた服を着替えさせる。
 それが終わると、おかみは思い出したように言った。
「ああ、そうだ。リュイが、二人に話があるそうだよ。 中に入れてもいいかい?」
「ええ、もちろん」
 サマエルの同意を受けて、おかみはドアを開けた。
「リュイ、もう入ってもいいよ」
「済みません、本当にご迷惑ばかりかけて!」
 入室するなり、リュイは深く頭を下げた。
「虫のいいお願いですが、シエンヌを許してやって下さい! 彼女が憲兵に連れて行かれたなんて知ったら、病気のお母さんは……!」
「気にしなくていいよ、リュイ。私達も、憲兵には関わりたくないからね。 聞いて欲しい、実は……」
 そう言うとサマエルは、ちらりとジルを見、念話を送る。
“私達の経歴について、今からちょっと作り話をするから、キミも話を合わせておくれ”
“うん、分かったわ”
「私は、遠い北国の、とある神殿の女司祭だった。ジルは、その神殿の巫女(みこ)の一人でね。 そうして、いつしか私達は、愛し合うようになっていった……。 けれど、私達の国では、同性同士の恋愛はご法度(はっと)。 しかも、私は神に仕える者、生身の人間を愛することなど、到底許されない。 隠し通して来たけれど、ついに発覚してしまい、私とジルとは手と手を取り合って、神殿から逃亡した。 追っ手に怯え、それに女二人だけの旅は危険でもある、私は男に変装し、逃げに逃げて……ここまで来れば大丈夫と、気を抜いた途端に、こんなことになってしまったのだよ」
 とっさの作り話だったが、幾分かの真実も含まれている。
 おかみはすっかり本気にし、二人に同情した。
「まああ、そうだったのかい、そりゃ大変だったねぇ! けど、女同士の恋人って、どこがそんなにいけないんだろ」
「そうだったんですか、男装……道理で、あなたの美しさは、どこか浮世離れしているというか……」
 リュイもまた、疑っている素振りは見せなかった。
 それどころか、サマエルを女性だと思い込み、整った顔にうっとりと見とれて、頬を染めていた。
「私達は逃亡者、目立つことは極力避けたい。 だから、シエンヌのことは不問に帰すよ。 その代わり、どうか、私達のことも黙っていて欲しい……」
 サマエルは頭を下げた。
 リュイは、焦ったように手を振り回す。
「いや、レシフェさん、頭なんか下げないで下さい。 こちらとしてもありがたいんですから、絶対、口外はしませんよ」
「もちろん、あたしだって言わないよ。 人にゃ、秘密にしておきたいことの一つや二つ、あるもんだからね。 任しときな、悪いようにはしないから」
 おかみは、自分の胸をたたいて見せた。
「ありがとうございます……」
「ありがとう!」
 サマエルとジルは、そろって礼を述べ、お辞儀をした。
「でも、傷は大丈夫なんですか? もし化膿したりしたら……」
「そうだよ、やっぱりちゃんと医者に診てもらった方が、いいんじゃないのかい?」
 心配そうな二人に、サマエルは、否定の身振りをして見せる。
「いえ、出血量の割には傷は浅いですし、やはり医者には診せたくありません。 きっとシエンヌは、私を本気で殺そうとしたわけではないのでしょう。 それに、この薬は神殿に伝わる秘薬で、とてもよく効きます。 数日もすれば傷もふさがり、動けるようになると思いますから。 それまではともかく、そっとしておいて頂きたい……どうぞお願いします」
 サマエルはまたも深々と頭を下げ、こうして、どうにかその場を凌(しの)いだのだった。

       ◇第15回

 ◆∽‥────────────────────────────∽◆

「ごめんなさい、サマエル。 あたしが南の島なんかに来たがったりしたから、こんなことに……」
 二人が去った後、すっかり打ちひしがれてしまった妻を、サマエルは慰めた。
「そんなことはないよ、ジル。巡り合わせさ。 それに、とても刺激的だったよ、この一月は。これまでの退屈が、すべて吹き飛ぶくらいにね」
「でも、こんな大騒ぎになって、ケガまでしちゃって……」
 うつむいたまま、ジルは鼻をすする。
「そうだねぇ……では、そろそろワルプルギスに戻ろうか? せっかく遠くまで来たのだし、他の島々にも足を運んでみたいなとは思っていたのだけれど。 ジル、キミはどうしたい?」
 サマエルは、妻の顔を覗き込む。
「あのね、……ううん、何でもない」
 言いかけて、ジルは小さく首を振った。
「どうしたの?」
「……何でもない。言わないでおいた方がいいわ、きっと。 こんなこと、知らない方がいい……」
 再び妻の眼から、大粒の涙が流れ始めるのを見たサマエルは、驚いて尋ねた。
「本当にどうしたのだね、ジル? 言いたいことがあるのだったら言っておくれ、キミが辛そうだと私も辛いよ」
「でも……」
「私達の間で、隠し事は無しだよ。言ってみてご覧」
 再度彼に促され、ジルはようやく口を開いた。
「うん。ごめんなさい。あのね、シエンヌのことなの。 彼女の声が聞こえて来て……。 悲しんでる、謝ってるわ、何度も何度も、サマエルを傷つけてしまったこと。 時々彼女は正気に返るの、そして後悔するんだわ……自分のしてしまったことに」
「……そうか。私は、そういった声に心を閉ざす癖が出来ていてね。 すべてを受け取ってしまうと、この狂った頭が余計に混乱してしまうから。 私同様、彼女も、正気と狂気の間を彷徨っているのだろうな。 可哀想に、完全に狂ってしまった方が、どれほど楽か知れないのにね……」
 サマエルは心底、気の毒そうに言う。
「そうなの? でもね、彼女が変になったのは、お父さんが急に死んじゃったからじゃなかったのよ。 ううん、それもショックだったかも知れないけど……」
「彼女の狂気には、他に理由があるというのかい?」
 サマエルの問いかけにうなずいて、ジルは手を差し出す。
 その手を取り、サマエルは彼女の心を読んだ。
 数分後、彼はわずかに眉をしかめ、痛ましい思いで妻を見た。
「……なるほど、これはひどいな。 こんなことが聞こえてきたのでは、キミが泣いてしまうのも無理はない。 辛かったね、ジル」
 ジルは否定の仕草をした。
「ううん。ホントに辛かったのはシエンヌの方よ」
「……ふうむ。最初は彼女も、リュイと二人で頑張ろうとしていた……なのに突然、狂気に憑かれたのには、こんなわけがあったのか……」
 王子は、ゆっくりと首を横に振った。
「シエンヌはあなたを傷つけたけど、でも、彼女を助けてあげて。 サマエル、お願い!」
 ジルは、祈るように胸の前で指を組み合わせた。
 困惑した彼は、深く息をついた。
「ふう……難しいねぇ。 自分の心の制御さえ、ろくにできないでいる私が、他人の心の面倒まで看(み)られるものかどうか……」
「でも、このままじゃ、リュイだって可哀想よ。 さっきはきついこと言ってたけど、ホントは今でも、シエンヌのことが大好きなんだもの。 好き合ってるのに、別れちゃわなきゃいけないなんて」
 思い出したように、サマエルはうなずく。
「ああ、リュイね、たしかに彼には罪はない。 仮に彼が町長の娘と結婚し、その後で、シエンヌの狂気の理由を知ってしまったら、ひどいショックを受けるに決まっているしね……」
「でしょう? 第一、シエンヌは、リュイが誰かと結婚したら、死ぬつもりでいるのよ。 もし、彼女が死んじゃった後で、リュイが本当のこと知ったら、どうなるのかしら……」
 ジルは憂(うれ)いを込めた眼で、サマエルをじっと見つめた。
「ふーむ、彼が自分を責めるだけならまだいいが……ああ、何だか、ひどい悲劇が待っているような気がして来た……」
 サマエルは、頭を振って嫌な考えを振り払い、答えた。
「分かったよ、ジル、何とか彼女を助ける手立てを考えてみよう」
「ありがと、サマエル。 でも、まだ血が出てるみたいよ。いつもより、何だか治るの遅い気がするんだけど、大丈夫?」
 心配そうに、ジルは彼の胸を指差す。
 たしかに、ずきずきする痛みは徐々に強くなりこそすれ、一向に弱まる気配はない。
「……変だな。ジル、手伝ってくれないか、傷を見てみよう。 この後、どうするにせよ、このケガを直さないと自由に動けないからね」
「うん」
 サマエルは妻の手を借りてシャツを脱ぎ、血がにじむ包帯を解く。
 露(あらわ)になった傷は、先ほどシエンヌに傷つけられた時のまま、まだ大きく口を開け血を流し続けて、やはり治癒には程遠かった。
「まあ、ひどい……全然治ってないわ」
 ジルは、またも大きな瞳をうるませた。
 彼は首をかしげた。
「……おかしいね、こんな程度のケガ、薬も塗ったし、すぐに癒えると思っていたのだけれど。 雑菌でも入ったかな……魔法を使わなければ駄目のようだ」
 痛みには慣れている魔族の王子も、傷がふさがらないことには戸惑っていた。
 元々魔族は傷の治りが早い。
 まして“カオスの貴公子”である自分の治癒能力の高さには、忌々しささえ感じるほどだったのに。
 ともかくサマエルは、治癒魔法を唱えた。
「──フィックス!」
 しかし次の瞬間、珍しくも彼は、驚きを声に出してしまっていた。
「こ、これはどうしたことだ、治癒魔法が効かないとは……!?」
「えっ、治癒魔法が!? そんな……じゃ、じゃあ、あたしが! ──キリエイ・アレイアサン!」
 代わってジルが急ぎ呪文を唱えるものの、ケガは治る兆(きざ)しさえ見せない。
「ど、どうして? 何で治らないの? ああ、サマエル、このままじゃ……!」
 おろおろする妻に、サマエルは優しく声をかける。
「大丈夫だよ、ジル、落ち着いて。 私が人間だったとしても、これは大した傷ではないよ」
「で、でも、どうして? こんなこと初めてだわ。いつもはすぐ治るでしょ、なのに」
「ふうむ、そうだねぇ……」
 少しの間、考えを巡らした後、サマエルは口を開いた。
「……可能性として上げられるのは、シエンヌが、天界の……神族の血を引いているのかも知れない、ということくらいだろうか」
 ジルは栗色の眼を見開く。
「ええっ、シエンヌが神族? だから魔族のサマエルにケガさせたの!?」
「いや、それだけが理由とは思えないな。 この仮説では、キミの呪文までが効かない理由を説明できないし。 ──あ、そうだ、もしかしたら」
 突如、サマエルは何か思いついたように振り向き、リュイが描いた絵……切り裂かれたカンバスを指差した。
「やはりそうだ。あれだよ、ジル。今気づいたが、リュイにも魔力があるのだ。 そのせいで、私の傷も治らないのだよ」
「えっ、リュイの絵のせいなの!?」
 急いでジルはカンバスを手に取り、しげしげと見た。
「……ホントだわ、リュイにも魔力があるのね。 とっても弱いから、今まで気づかなかったけど。 だから彼の絵は、人の心を打つんだわ」
「そうだね。ただし彼は、無意識のうちに、絵を描くことだけに力を使っているから、自分に魔力があるということに気づいていないようだけれど。 ジル、この絵の、傷ついた箇所を修復してくれないか。私の魔力では、反応しないかも知れないから」
「う、うん。 ──レスティティオ!」
 理由が分からぬまま、それでも言われた通りにジルが呪文を唱えると、無惨に斬られた絵は、あっという間に元通りになった。
 抜けるような青空の下、緑鮮やかなヤシの木陰で、一組の浅黒い男女がにこやかに寄り添い立っている。
 その後ろには純白の砂浜と、紺碧(こんぺき)に煌(きらめ)く海が広がり、打ち寄せる波頭は白く泡立っていた。
 じっと見ていると、絵の中の二人が互いに愛し合っているのが、見る者にも鮮明に伝わって来る。
 その上、今にも彼らは動き出して、抱き合ったり、キスしたりしそうな気さえして来るのだった。
「でも、何度見ても、不思議な感じがする絵ね。 サマエル、絵は直ったけど、……」
 彼女が振り向くと同時に、サマエルの胸の傷も出血が止まり、みるみるふさがっていった。
「き、傷が消えちゃったわ!?」
 ジルは眼を丸くして、彼と絵とを交互に見た。
「……やはりね」
 サマエルは微笑む。
 傷跡一つない、夫のなめらかな皮膚に触れ、彼女は、ほっと安堵の息をつく。
「よかった……でも、どうして、絵を直したら傷が治ったの?」
「これは私の推測だが、彼らは一種の共鳴現象を起こしているのだと思う。 シエンヌは神族の、リュイは魔族の血をそれぞれ引いているために、磁石のプラスとマイナス極が引き寄せ合うように。 だから、リュイは無意識にシエンヌに力を貸した……彼女の望みを叶えようとしたのだ、絵を通じてね」
「えっ、リュイまで、サマエルを傷つけようとしたの!?」
 ジルは青ざめ、口に手を当てる。
 サマエルは、かぶりを振った。
「いや、シエンヌを守ろうとした結果だよ、しかも彼自身、それを意識していない。 彼女の思いに同調しただけなのだから。 こうなると、やはりシエンヌにとっての王子様は、リュイなのだろうな」
「じゃあ、シエンヌを……ううん、二人を助けてあげてくれる?」
 おずおずと問い掛けてくる妻に、サマエルは微笑みかけた。
「ああ、彼らのために一肌脱ごう。 というより私達は、知らず知らずのうちに引き寄せられたのかも知れない、シエンヌの力に。 ……かつて私が、キミの声に呼び寄せられたようにね」
「うん、きっとそうね!」
 うれしそうな顔で、ジルは両手をパチンと打ち合わせる。

        *       *       *

 やがて夜になり、サマエルは妻を置いて宿屋を出た。
 夢魔としての力を揮(ふる)うところを彼女には見られたくはなかったし、また、一人の方が、これからすることに集中できるからだった。
 周囲を探り、誰も見ていないことを確認する。
 そして彼は黒い翼を力強く羽ばたかせ、飛び立った。
 折りしも今夜は満月、その光を受けて高く高く飛翔するサマエルの姿は、地上から見れば、ただ一匹で餌を探す、はぐれコウモリのようにも見える。
 しばしの飛行の後、音もなく彼が舞い降りたのは、とある豪邸の、広大な庭の外れだった。
 どうやらパーティが開かれているらしく、にぎやかな音楽と、人々のさんざめきがそこにまで届いて来る。
「……うまく行ったわ、何もかも。 これでリュイはわたしのものよ、誰にも渡さないわ、ふふ」
 人の群れから離れて、ワイングラスを片手に、ほろ酔い加減の町長の娘、ジュガが一人で自己満足に浸っていた。
 その彼女に、音もなく、サマエルは近づく。
 ジュガの顔と屋敷の位置は、リュイの心から読み取って、彼は知っていたのだった。
「今晩は、お嬢さん」
「だ、誰!?」
 いきなり声をかけられて、ジュガは、ぎくりと身を固くする。
 サマエルは闇の中から歩み出、ローブのフードを跳ね上げて、素顔を露にした。
「驚かせて申し訳ありません。私は旅の占い師。レシフェとお呼び下さい。 今宵のパーティに、余興にと呼ばれましてね。 こうして皆様の間を回り、占って差し上げているのですよ、未来をね」
「なあんだ、占い師……」
 ほっとしたジュガは、いきなり動きを止めた。
 月明かりに浮かび上がる、サマエルの絶世の美貌が眼に飛び込んで来たのだ。
 無論、今の彼は変装して色黒にし、髪も眼の色も変えてはいたが、その凛とした気品と犯しがたい威厳は、見間違えようもなかった。
「あ、あなた、は……本当に占い師なの、ですか……?」
 我知らず、ジュガの言葉遣いは、ていねいなものになっていた。
「そうですよ。他の何だとおっしゃるのでしょう」
 サマエルは、ここぞとばかりに極上の笑みを浮かべ、ジュガはどぎまぎして真っ赤になった。
 それから気を取り直し、急に横柄な口調になる。
「いいわ、とにかく占ってよ。まあ、わたしの未来は、輝いてるに決まってるけどね」
「では、これをご覧下さい。あなたの未来が映ります」
 彼は懐から、掌サイズの水晶球を取り出した。
 町長の娘は眼を凝らすものの、いつまで経っても水晶球は、夜の色を映して黒いままだった。
「何よ、何も見えないじゃない」
 振り返り、ジュガは口をとがらせた。
「焦っていけませんよ、お嬢さん。もうじきです」
 サマエルが答えたとき、水晶が眼も眩む輝きを放った。
「きゃっ!?」
 ジュガは思わず顔を覆う。
「さあ、ご覧下さい、これがあなたですよ、ごく近い未来のね。 この水晶は嘘をつきません、決して」
 その言葉にジュガが眼を明けると、水晶球に浮かび上がっていたのは、彼女が想像すらしなかった何者かの姿だった。

       ◇第16回

 ◆∽‥────────────────────────────∽◆

 水晶球に映し出されたのは、木の枝を杖代わりにしてよろめき歩く、みすぼらしい人物だった。
 背骨は弓なりに曲がって、顔は、ほこりまみれのもつれた長い髪に隠されており、見えない。
 着ている物は、元の色が分からないほど汚れ、あちこち擦り切れて穴が開き、ボロボロだった。
 ジュガはむっとして振り返り、サマエルを睨んだ。
「ちょっと! こんなのが、わたしの未来だって言うつもり!? ふざけないでよっ!」
「……おや? 変ですね……ああ、少々手違いがあったようです、失礼しました」
 サマエルは軽く頭を下げ、水晶球をなでるような仕草をした。
「さあ、今度こそ、あなたの未来が映りますよ。よくご覧下さい」
 別な画像に替わるかと思いきや、怪しい人影の顔部分が拡大されただけだった。
 ジュガが再び抗議しよかけたとき、不意にその人物が顔を上げ、彼女の眼は水晶球に吸いつけられた。
「まあ、ひどい。どうしちゃったの、これ……」
 疫病にでも罹(かか)ったのだろうか、その人物の左眼は、ただれた皮膚に覆い隠され、残った右眼も狂気を帯びて血走り、鼻は大小様々のイボに覆い尽くされて、元の形も分からない。
 少し開いた口から覗く歯もまた、ぼろぼろに欠けてしまっている。
 元々ジュガは、髪こそ黒だったものの、肌の色は一般のメリーディエス人よりかなり白く、眼も、はしばみ色だった。
 そして、超がつくほどではないにしろ、美人の範疇(はんちゅう)に入れたとしても、さほど良心が痛まない程度の容貌はしていた。
 しかし、今、水晶球に映し出されているの人物の風貌は、果たしてこれが人間なのかどうか、怪しむほどだった……。
「……も、もう、いい加減にして! 人を呼ぶわよ、お父様に言いつけて、二度と占いなんかできないようにしてやるから!」
 怒り心頭に達したジュガが叫んだ刹那、サマエルの表情が一変した。
 それまで青空のように澄んでいた眼が、妖しい紅へと変わり、さらにその中には闇の炎が燃え上がって、背後からは、瘴気めいた暗黒のオーラが立ち昇り始める。
「な、何……あんた、本当は誰よ、何者なの!?」
 優しげだった青年の豹変した態度に、ジュガは息を呑み、たじたじとなった。
 サマエルは、そんな町長の娘に冷ややかな眼差しを向け、水晶球を頭上高く差し上げた。
「これに映っているのはまぎれもなく、お前の姿だ。 ──さあ、ジュガよ、おのれの犯した罪の報いを受けるがいい、これこそがお前、その醜き心を具現化した真の姿だ! ──暗黒に棲(す)まうアーマーンよ! 彼(か)の者を、その邪(よこしま)な心にふさわしき、醜悪なる風姿(ふうし)へと変えよ! ──ターピス!」
 呪文と共に、彼は力を込めて、水晶球を敷石にたたきつけた。
 それが粉々に砕けた次の瞬間、地面にぽかりと穴が開き、何かが飛び出して来て、ジュガに襲い掛かった。
 それは、ワニの顔、ライオンの前脚、カバの後ろ脚を持つ魔獣だった。
「ぎゃーっ! な、何よ、こいつ! た、助けて、誰かーっ!」
 彼女は大声を上げ、怪物を振り払おうと地面を転げ回った。
「何だ!?」
「どうした!?」
 音と悲鳴を聞きつけた人々が、何事かと集まって来る。
 しかしその頃には、サマエルが呼び出した闇の魔獣は目的を達し、再び地中へと吸い込まれ、同時に穴もふさがっていた。
「お嬢様!」
 大勢の護衛達が駆け寄って来て、そのうちの一人が、倒れたジュガを揺さぶった。
「お嬢様、大丈夫ですか、しっかりなさって下さい!」
 残りの男達、十人ほどが、険しい顔で剣を構え、サマエルを取り囲んだ。
「貴様、何者だ!? ジュガ様に何をした!」
「何者かと問うか。 ならば答えよう、我が名はサマエル、ジュガの非道に泣かされた、幾人もの娘達の嘆きに呼び寄せられ、この地へと参った。 そして、ジュガはおのれの悪業の報いを受けた……まさに自業自得だ!」
 無慈悲な口調で言い捨てると、サマエルは、呪文を唱えた。
「──ディスイリュージョン!」
 たちまち、肌は抜けるような白へと変わり、短かった黒髪もまた背の中ほどまで伸びて、月光を受けて輝く銀となる。
 変身を解いたといっても、無論、ここで真の姿を現すわけにはいかない。
 当然、魔族の証である角や翼は隠したままだった。
 そのとき、ジュガが正気づき、半身を起こした。
「サマエルですって……!? 賢者様が、どうしてこんなことを……」
「お嬢……うわあっ! ば、化け物!」
 彼女を助け起こそうとした護衛の一人が、悲鳴を上げ、腰を抜かした。
「な、何だ、こいつは!」
「お嬢様じゃない!?」
「化け物がいるぞ!」
 別な護衛達も、ジュガを指差し、口々に声を上げる。
「え? 何、どうしたの……?」
 ジュガは訳が分からず、自分の顔に手を当てた。
「傲慢(ごうまん)な娘よ、今のお前の姿を見せてやろう。 ──カンジュア!」
 サマエルは鏡を呼び出す。
「さあ、とくと見よ、これがお前の真の姿だ!」
「こ、これが!?  う、嘘よ、こんなっ……! な、何でこんなことをするのよ! わたしが一体、何をしたって言うのっ!?」
 ジュガはぼろぼろと涙を流し、拳で地面をたたく。
 空中に浮かぶ鏡に映し出されたのは、ついさっきサマエルが彼女に見せた、水晶球の人物とまったく同一の、たとえようもなく醜い顔だったのだ。
「お前自身の胸に聞くがいい。 ……それとも、皆の前で悪事を暴露される方がいいか?」
 サマエルは、紅い眼に暗い怒りの炎を滾(たぎ)らせ、彼女に指を突きつける。
「え、いえ、その……」
 ジュガは、ぎくりとし、口ごもって眼を伏せた。
「レ、レシフェさん……あなたが、賢者サマエルだったなんて……!」
 聞き覚えのある声にサマエルが振り返ると、そこに呆然と立っていたのはリュイだった。
「ああ、キミもこのパーティに呼ばれていたのか。 騙していて悪かったね。正体を知られないためには、ああいう嘘をつくしかなかったのだよ」
 穏やかな表情に戻り、サマエルは言った。
「そ、それはいいとして、どうしてジュガにこんなことを? いや、理由なんかどうでもいい、今すぐ彼女を、元の姿に戻して下さい!」
 彼の嘆願に対し、サマエルは否定の身振りをして見せた。
「それはできない。 このままでは、キミもシエンヌも揃って不幸になってしまう……それを阻止して欲しいと、ジルに頼まれたのでね」
 リュイは、あっけに取られた顔をした。
「……ジルさんがあなたに? どういうことですか? あなた方は、散々、シエンヌに迷惑をかけられたのに。 どうして今さら、彼女の肩を持つんです?」
「リュイ、キミは不幸な結婚をしようとしているのだよ。 まあ、シエンヌが狂ってしまった理由を知らないから、仕方がないのだけれどね」
「え、彼女が狂った理由? ……お父さんが急に亡くなり、お母さんも病気になってしまったからでしょう?」
それを聞いたサマエルは痛ましい顔になり、首を横に振った。
「……いいや。 シエンヌの狂気には、口が裂けても言えない……いや、キミにだけは決して聞かせたくない、 ある特別な理由があるのだよ。 感受性の強いジルは、敏感にそれを感じ取って……」
「だ、騙されちゃ駄目よ、リュイ! ──皆、何をしているの、早くこいつを捕まえて! こいつは賢者なんかじゃないわ、わたしに……こんな呪いをかけた、悪い呪術師よ!」
 両手で顔を隠し、ジュガが叫ぶと、腕に覚えのある護衛者達は我に返り、剣を構え直した。
「そ、そうだ、サマエルがこんなところにいるはずがない!」
「こいつは、賢者の名を騙(かた)っているだけだ!」
「──偽者めっ!」
 一人が斬りかかるのを合図にして、皆がサマエルにかかっていく。
 だが。
 無言でサマエルは手を一振りし、全員を宙に浮かせた。
「うわあ!」
「お、下ろせ!」
 手足をばたつかせる十人ほどの護衛を背景にして、サマエルは冷たい微笑を浮かべた。
 月光に浮かび上がる凄艶(せいえん)な美しさに、人々は息を呑み、彼に斬りかかろうとする者は、もはや誰もいなかった。
「ジュガ。愚かで驕慢(きょうまん)な娘よ。 この国のみならず、人界や魔界全土を巡ったとしても、私に対抗し得る者はいないぞ。 だが、我とて慈悲の心はある。誠心誠意、祈るがいい、それが天に届けば、必ずや、呪いを解く術を知る者が現れるだろう……。 では、さらばだ」
 そう言い残し、立ち去ろうとするサマエルの背中に、リュイは呼びかけた。
「待って下さい、賢者サマエル! その、理由を教えて下さい、シエンヌが狂った訳を!」
「駄目、駄目よ、そんなヤツに耳を貸しちゃ!」
 必死の面持ちで、ジュガは彼に取りすがる。
 サマエルはまっすぐにリュイを見つめ、尋ねた。
「それがどんな酷いことでも、受け止める勇気がキミにあるか?」
「はい」
 きっぱりとリュイは答える。
「では、教えよう。私と共に来るがいい」
 サマエルは手を差し伸べた。
「リュイ、行っちゃ駄目!」
 ジュガはさらに強く、彼にしがみついた。
「放してくれ、ジュガ。僕は知らなくちゃいけないんだ、真実を。 それを知らないうちは、キミと結婚もできない……そんな気がする」
「──あああ!」
 ついにジュガは顔を覆い、泣き崩れた。
「泣かないでくれ、ジュガ、すぐ戻るから……」
「リュイ、来るのか、来ないのか?」
 ジュガに慰めの言葉をかけるリュイを、苛立たしげにサマエルは急かす。
「行きますとも、でも、ちょっと待って下さい、ジュガと話を……」
「そんな女は放っておけばいい。 私の話を聞けば、なぜ私がそう言ったか分かるだろう」
 そっけなくサマエルは言ってのけ、リュイは、弾かれたようにジュガを見た。
「まさか……!? と、ともかく放してくれ、ジュガ」
「嫌、嫌よ、行かないで」
 まだしがみついて来る、ほてったジュガの腕を振りほどき、彼は賢者の冷たい手を取った。
「──ヴェラウェハ!」
 再びジュガが彼を捕らえないうちに、サマエルは急いで呪文を唱え、二人を運んだ。
「あれは……シエンヌの家?」
「しっ、静かに」
 彼らは、彼女の家の見えるところに来ていた。
 シエンヌは一人、窓辺に座り、月を見上げている。
 やがて彼女は独り言を言い始めたが、その口調は、意外なほどしっかりしていた。
「……これでよかったのよね、お金持ちと結婚すれば、絵の勉強も続けられる……。 きっと有名になれるわ、リュイ。 あたしやお母さんの面倒を見るために頑張ってくれるのはうれしいけど、あなたみたいな人が、畑仕事や漁師のまねごとなんて、しちゃいけないのよ……あんな素敵な絵を描けるのに、もったいない……」
 しかし、正常な口の利き方もそこまでで、彼女の目つきはすぐにとろんとし、ろれつが回らなくなって、何を言っているのか分からなくなり始めた。
「そぉよ、もう、あたしの、おおじさま……お月さまになて飛んでった、のね……」
「シエンヌ……」
 リュイはうつむき、唇を噛んだ。
「キミはここで待っていなさい」
 そう言うと、サマエルはシエンヌの前に進み出た。
「お、王子様……!」
 シエンヌは再び、正気に戻ったように見えた。
「そう、私は王子だ……ただし、魔界のね。 私の名はサマエル、人界では賢者と呼ばれているが、実のところは、魔族の第二王子なのだよ」
だが、彼の告白にも、シエンヌは動じた様子はなかった。
「……そうじゃないかと思っていたわ。 だってあなたは、わたしが昔見たままの姿で、全然年取ってないんだもの」
「それで、ジルを傷つけようとしたあげく、私に傷を負わせたのか? 通りすがりの男達に抱きついたのも、リュイに嫌われるためにやっていたのだろう?」
「……その通りよ。怒った?」
「ああ、とても」
 眉一つ動かさず、サマエルは答えた。
「それで……わたしを殺しに来たの?」
 上目遣いに、シエンヌは問いかける。まったく怖がっている風もなく。
「いや。もっと酷いことをしに来た。その後で殺してあげよう」
 そんな恐ろしい言葉にも、シエンヌは動揺を見せなかった。
「……そう。いいわ。もう。 リュイはお金持ちになれるし、お母さんは……お母さんも殺してくれる? 彼の足手まといにしたくない……でも、わたしが死んだのを知ったら……。 でももう、お母さんも多分、長くなさそうだけどね。 ……さあ、どうぞ。好きにして」
 シエンヌは指を組み合わせて祈り、眼をつぶった。
 閉じた目蓋から、涙が一筋、頬を伝う。
「いい覚悟だ……痛くはしない、夢見心地で死なせてあげるよ」
 サマエルは、彼女の服を脱がしにかかる。
 それを見ていたリュイは我慢できず、飛び出して来た。
「やめて下さい、何をする気なんですか!?」
「リュイ!? いつからそこに……」
 シエンヌは驚き、慌てて服の胸元をかき合わせる。
「この人と一緒に来たんだよ! あなたは……魔族というのはホントなんですか!?」
 リュイは、彼に詰め寄る。
「ああ。そして、魔界の王族はすべて夢魔……インキュバスなのだよ。 私はこれから、私が受けた傷と、妻を傷つけようとしたことに対する罰を、彼女に与えようと思う。 そこで見ているがいい。 ──ヴォクテム!」
 彼がぱちんと指を鳴らすと、リュイの体は動かなくなった。
「な、何を……!?」
「……ふふ、インキュバスがどういう類の魔物か、キミも知っているだろう……? 夜な夜な女性を襲い、何をするか……」
 サマエルは、凄みのある笑みを浮かべた。
「そ、そんな!」
 リュイは真っ青になった。

       ◇第17回

 ◆∽‥────────────────────────────∽◆

「空腹だったところでもあるし、ちょうどいい。 それでもまあ、傷は完治したし、キミの素晴らしい絵に免じて命は取らない、少し精気を吸い、もてあそんだ後は、生かして解放することにしよう。 今度こそシエンヌは完全に狂い、サキュバスのごとく、男を求めてさ迷い歩くようになるだろうけれどね、くく……」
 サマエルは、凄絶な笑みを浮かべた。
「や、やめてくれ! いや、やめて下さい! あなたも賢者サマエルと呼ばれたほどの人なら、そんな酷いこと、しないで下さい……」
「私は人ではない。“賢者”も、お前達人間が勝手につけた呼び名だ。 それに、シエンヌは乙女ではないから、さほど良心も痛まないね」
 すがるようなリュイに対するサマエルの返事は、そっけなかった。
「何だと、この人でなし!」
 カッとなった青年は殴りかかろうとするが、拳どころか指さえ動かせない。
 魔界の王子はそれを横目で見、冷たく微笑んだ。
「忘れていた、彼女の狂気の原因を教える約束だったな」
 途端に、シエンヌの表情が変わった。
「や、やめて、言わないで! 彼にだけは知られたくないの!」
 しかし、サマエルは冷ややかに彼女を見た。
「私を傷つけ、せっかくの新婚旅行を台無しにしておいて、何を今さら。 不快の極みだ」
「ご、ごめんなさい、謝るから、それだけは彼に言わないで!」
 シエンヌは、祈るように手を合わせた。
「嫌だね。 リュイ、聞くがいい、シエンヌが狂った訳を。それは……」
「やめてぇー!」
 サマエルは、飛びかかって来た少女を軽くいなし、話を続けた。
「簡単なことだ。ジュガが、ならず者達を雇って彼女の体を汚したからだよ。 狂った後も、シエンヌはお前のことだけを考え、自分を諦めさせようとした。 さっきのように、時折は正常に戻っていたのだろうな」
「いやああああ……!」
 シエンヌは悲鳴を上げ、その場にくずおれた。
「シ、シエンヌ!」
 リュイはもがくが、やはり動けず、気絶した彼女を見ることしか出来ない。
「ああ……僕は知らずに……キミの仇と結婚しようとしてたのか……?」
 つぶやくその顔からは、血の気が失せていた。
「そうさ。ジュガは人一倍、自尊心の強い女だ。 何でも自分が一番でなければ気が済まず、自分よりも優れた女性達を、次々、ならず者に襲わせていたのだよ。 毒を飲まされ、声を失った歌い手や、追い詰められて自殺した女性もいた……」
「そ、そういえば……ジュガより綺麗な子は、皆、いなくなって……いつの間にか、彼女が島一番の美人ってことに……まさか、そんな、まさか」
 まだ信じられずにいる様子の青年に、サマエルはさらに教えた。
「女だけではない。 ジュガの婚約者だった男が、行方知れずになったのを知っているか?」
「……あ、ああ、知ってるとも、隣島の村長の息子だろう? けど、あいつは二股かけてて、別な女と逃げたって、ジュガは泣いてたぞ!」
「それも嘘だな、涙も、同情を引くための演技だ。 お前の方が好みだったから、婚約者が邪魔になったのだな。 その男、今頃は魚の餌になっているだろうさ、可哀想に」
「そんな……」
 あまりのことに、リュイは言葉を失った。
「お前は魔族……インキュバスの血を引いている。 女達は、灯りに集まる虫のようにその血に惹かれ、群がるのだ……お前の周りの女性が不幸になるのは、全部お前のせいだ」
 魔族の王子は、冷酷に宣言する。
 リュイはただ、口をパクパクさせるだけだった。
「もしお前に会わなければ、生家が没落したとしても、シエンヌは母と二人、慎ましく暮らせていたはずだ。 ジュガも、殺人にまで手を染めることはなかったろう、魔性の女となったのも、すべてお前のせいなのだ!」
 サマエルは、若者に指を突きつけた。
「そんな……すべて、僕のせい……!? く……だったら……そうだ、あんたはどうなんだ!」
 リュイは食いしばるように言った。
「私……?」
「そうだよ。あんただって、奥さんを、ジルさんを騙してるんじゃないのか!?」
「まさか。彼女は私の素性を知った上で、一緒になると言ってくれたのだ」
「嘘つけ、術でもかけたんだろう!」
 王子は頭を振った。
「そんなことはしていない。 第一、彼女のように魔力が強い女性には、術などかからないよ。 かつて私は、病気で死にかけていた彼女を助けた……成人したら、独立させるつもりで……なのに、兄が、妃にすると言い出し、連れて行こうとした……だが、魔界は人族にとって過酷な場所だ、そこでやむなく、手元に置くことになり……彼女も私を選んでくれた……けれど……」
 サマエルは天を仰いだ。
 あれほど晴れ渡っていた空は、いつしか厚い雲に覆われて、ぽつぽつと雨が降り出していた。
「今は、少し後悔しているかな、彼女の自由を奪ってしまったような気がして。 それに……時々、愛など知らなければよかったと思う時もある……。 今も一人だったなら、私は……今も地下深くで、安らかに眠っていられたのにと……なまじ、彼女を連れ帰ったばかりに、私は……心の平安をなくしてしまったような気がして……」
 サマエルがそう言った時、近くの茂みが、がさりと音を立てた。
 はっと口をつぐんだ時には遅く、そこにはジルが立っていた。
「サマエル……あたしのこと、そんな風に思ってたの……?」
「ジ、ジル、いや、違う……」
「どう違うの? ずっと、邪魔、だったんでしょう? だから、……」
 大粒の涙が、ぽろぽろと、栗色の瞳からこぼれ出る。
「いや、そうではないのだ、ジル、聞いてくれ……」
「もういいわ、分かったから。あたしなんて、いない方がいいのね。 ──さよなら!」
 そう言うと、ジルは砂浜目がけて駆け出し、勢いよく海に飛び込んだ。
「ジル! ……ああ」
 手を伸ばしかけた魔界の王子は、すぐに下ろしてしまった。
「……いいのか? 追わなくて」
 問われて、彼は首を横に振った。
「……彼女はついに、私に愛想を尽かしたのだろう……。 何があっても、私を信じて付いて来てくれたのに、去って行く……それを止める権利は、ない……」
「馬鹿野郎!」
 動けないまま、リュイは叫んだ。
「何で、彼女が逃げ出したと思う! お前に追いかけて来て欲しいからだ! いや、追いかけて来てくれるかどうか、試してるんだよ!」
「……そんなわけ……」
 サマエルが言ったとき、彼の心の内を流れる涙のように、雨脚が激しくなり始めた。
 ざわざわとヤシの木が揺れ、波も高くなっていく。
「お、おい、ヤバイぞ、時化(しけ)て来た、早く助けに行かないと。 こんなに波が高いんじゃ、泳ぎが達者でも溺れるかも……」
「……大丈夫さ、彼女は魔法が使えるのだから」
「そういう問題じゃない! もしかしたら、彼女は、生きる気力をなくして、泳ぐのを諦めちまうかも知れないってことだ、あんた、奥さんが死んでもいいのかよ!?」
 リュイは声を振り絞った。
「まさか、そんな……」
「いいから、早く行け!」
「……」
 サマエルはリュイをちらりと見、それから、まだ気を失っているシエンヌに歩み寄ると、抱き上げて唇を奪った。
「あ、な、何するんだ!?」
「彼女は、それこそ死んだ方が幸せだ。 お前にだけは知られたくなかった秘密を、知られてしまって。 だから、精気を吸い尽くしたのさ」
 サマエルは、ぴくりとも動かないシエンヌを地面に寝かせ、背中の黒い翼を羽ばたかせて、空に舞い上がった。
「あ、動ける!?」
 途端に金縛りが解けたリュイは、恋人に駆け寄り、抱き起こした。
「シエンヌ、死ぬな、眼を開けてくれ!」
「……これでお前の足枷は、全部なくなったな」
 上空にいたサマエルは、無表情に言った。
「え、全部って……まさか?」
 はっとしたリュイは、シエンヌの家に視線を向けた。
「こ、この人でなし! 僕は、彼女とお母さんを支えて行こうと思ってたのに!」
「今までのお前は、無意識に力を使っていて、そのことが不幸を招いていた。
 だがもし、力を制御しつつ絵の勉強をしたいなら、ファイディー王立魔法学院へ行くといい。 ただし、私の名を出すのは、学院長の前だけにしておくことだな、命が惜しければ」
「ま、待て、サマエル! 許さないぞ! 僕はお前を……!」
 悲痛な叫びを背中に聞いて、サマエルは、ジルを捜して飛び始めた。
 荒れ狂う波と、たたきつけるように降りしきる雨、どこから吹き付けるか予想もつかない風に翻弄されながら、サマエルは、恋しい妻の姿を暗い海に探し求めた。
「──ジル! ジル、どこだ! 返事をしてくれ!」
 声を枯らして叫んでも、応えはない。
 この嵐が、まるでジルの拒絶のように思えて来て、彼はくじけそうになる。
(いや、駄目だ、ここで諦めたら、絶対後悔する。 ジルを見つけ出し、そして……謝ろう。 とことん謝って、それでも駄目だったら……そのときは。 そう、きちんと別れよう。こんな中途半端な別離は嫌だ……!)
 彼はそう思い、捜し続けた。
 しかし、夜目が効く彼の魔眼でも、中々ジルの姿は捉えられない。
(……おかしいな。この嵐の中、そんなに速く泳げるわけがないのに……。 呪文で移動したのか……? いや、それなら、魔力の波動を感じるはず……)
 不審に思った彼は、念話に切り替えた。
“ジル……ジル! どこにいる? 返事をしてくれ!”
 心を澄まし待ってみても、やはり、彼女の意思は返って来ない。
 サマエルは眼を閉じ、嵐を無視して、ジルを感じようと努めた。
「あ……まさか!」
 はっと、彼は眼を明けた。
 答えがないのも当然、彼女の反応は海中にあり、それも、海の底に向かって沈んで行っていたのだ。
「……く!」
 急ぎ、サマエルは指を二本立て、さっと振る。
 途端に、水柱が、まるで鎌首をもたげる水蛇のように空高く伸びたかと思うと、すさまじい勢いで彼目がけて急降下して来た。
「いた!」
 臆することなく彼は水流を受け止め、その中から、愛しい妻の体をすくい取った。
「ジル、しっかり!」
 揺さぶっても、すでに息はなく、彼女の心臓も止まっていた。
「……死なせるものか!」
 彼は妻の胸に手を当て、魔力で心臓に刺激を与えた。
 鼓動の再開を確かめ、人工呼吸を開始する。
 それでも、中々意識は戻らない。
(死なないでくれ、ジル……! 私は、まだ、ちゃんとキミに謝っていない、生き返ってくれ……!)
 懸命に、彼は妻に息を吹き込み続けた。
「うっ、……ごぼっ、う、ごほ、ごほっ」
 そうして、ついに、ジルは息を吹き返した。
「よかった……大丈夫かい、気分はどう?」
 心から安堵したサマエルは、妻の背中を優しくさすった。
「サマエル……? 来てくれたのね、ああ、サマエル!」
 正気づいたジルは、彼の首に抱きついた。
 その言葉と態度が、リュイの推測が正しかったことを物語っていた。
 サマエルは、天に向かって拳を突き上げた。
 その刹那、空を覆い尽くしていた雲は消え、あれほど激しかった嵐はぴたりとやんで、大きな明るい満月が、煌々と海面を照らし出した。
「……済まない、ジル。 何もかも私がいけないのだ、愚かな私を許してくれ、許すと言ってくれ、そして、戻って来てくれ……! でないと、私は生きていけない、済まない、ジル、済まない、済まない……」
 波の音だけが聞こえる中、彼は妻を抱き締め、ひたすら謝り続けた。
 ジルは悲しげに彼を見つめた。
「そんなに謝られると、辛いわ。 サマエルって、何も悪いことしてないときでも、いつも謝ってばっかりなんだもの」
「済まない……あ、いや……だったら、何と言えば……いいのだろう……」
 サマエルは、眼を伏せるしかなかった。
「そうね……じゃあ、ありがとう、って言えばいいんじゃないかしら? 来てくれてありがとう、あたし、すっごくうれしいわ……!」
 ジルは、彼の顔に冷たい頬をすり寄せた。
「ああ……ジル……! こちらこそ、私の妻になってくれてありがとう……!」
「サマエル!」
 穏やかな波間に二人は漂い、しばしの間、固く抱き合っていた。

          *      *      *

「体が冷え切ってしまったね……そろそろ陸に……」
 言いかけたとき、空に輝く満月が眼に入り、サマエルはあることに気づいた。
「……ああ、ご覧、ジル。今日はブルームーンだよ」
「え? でも、青くないけど?」
 ジルは小首をかしげた。
「いや、色のことではなくてね。 覚えているかい? 屋敷を出た日も満月だった……あれからちょうど一ヶ月だよ。 通常、満月は月に一度……それが二度あるとき、奇跡の月……ブルームーンと呼ぶのさ」
「そうなの。素敵な呼び方ね。 ……あ、ねえ、見て。海に映ってるお月様の光が、ながーく伸びて、まるで階段みたいじゃない? あれを登ったら、お空に行けそう。綺麗ね……」
 うっとりとジルは言った。
 その言葉通り、海面に映る月の姿は、一筋の輝く帯となり、あたかも空へと続く光の階段のようにも見える。
「月への階段か……。 こんな美しい景色を、二つも同時に見られるなんて、私達はついているね」
「ホントね、ここに来てよかったわ、これもサマエルのお陰よ」
 ジルはにっこりした。
「……いや、キミのお陰さ、旅行しようと提案したのはキミだもの」
「ううん、あたし達、二人でいたから、こんな素敵なところに来られたのよ」
「そうか……そうだね」
 彼も釣られて微笑み、それから左腕を伸ばして、月にかざした。
(奇跡の月……ブルームーンよ、お願いだ……私に、勇気を与えてくれ!)
 そうして、サマエルは、大きく息を吸って心を落ち着け、妻の肩に両手を置き、栗色の瞳を覗き込んだ。
「ジル……海は生命のゆりかごだ。 人界の生物は皆、この海で生まれ、私もその血を半分受け継いでいる。 だから……ここで、新しい命を宿す儀式……を、行ってもいいだろうか?」
「え、儀式? 新しい命……?」
 ジルは首をひねる。
「そう、つまり……。
 普通なら、夫婦が夜、一つのベッドで行うもの、なのだが……」
 気後れしたサマエルの声は、徐々に小さくなっていく。
 だが、彼女の眼には、ぱっと理解の光が灯った。
「あ、赤ちゃんを作るってこと?」
「……そう。でも、もし、キミがこんなところでは嫌だと言うなら……」
 彼が口ごもると、ジルは頬を赤らめながらも、否定の仕草をした。
「嫌じゃないわ。あたし、うれしい……」
「いいのだね……?」
 こくんとうなずく妻にサマエルは口づけ、ついに二人はその夜、晴れて本当の夫婦となった。

       ◇第18回

 ◆∽‥────────────────────────────∽◆

 二人は時も忘れて愛し合い、そのまま朝を迎えた。
 太陽が、水平線から輝かしい姿を現す。
「ご覧、ジル。日が昇るよ……」
「綺麗……素敵な一日が始まるんだわ……」
「……ジル?」
 腕の中で眠り込んでしまった妻を、サマエルは愛おしげに抱きしめ、口づけた。
 夜の間に、二人は、かなり沖まで流されていた。
 翼を広げ、元の島まで戻ろうと舞い上がったとき、サマエルの眼に入ったのは、ヤシの木がまばらに生えた無人島だった。
 このまま帰ってしまうのも、どこか名残り惜しい。
 今日はここで過ごそうと決め、彼は、白い砂浜に舞い降りた。
 そして、念のため結界を張ってから、ヤシの木にハンモックを二つ吊るし、一つに妻を、自分は隣に寝た。
 ジルは、安らかな寝息を立てていた。
 波と葉ずれの音だけが聞こえ、潮風が、優しく二人の吊床を揺らす。
(ああ、久しぶりだ、こんなに気分がいいのは……)
 幸福な気持ちで、そよぐ風に身を任せているうち、知らず知らずサマエルも、眠りに落ちていた。
 太陽が真上に来た頃、二人は目覚めた。
「……お早う、奥さん」
 すでに朝ではなかったが、サマエルは、妻にそう声をかけた。
「え、あ……、サマエル、お早う……でも、ここ、どこ?」
 ジルは眼をこすりながら、不思議そうに辺りを見回す。
「沖の無人島だよ。
 ヤシの木がいい感じに生えていたから、これで寝てみるのも、風情があっていいかなと思ってね」
 彼は、手でハンモックを示した。
「わー、ホントだ、すごい! あたし、一度寝てみたいと思ってたのよ!」
 ジルは眼を輝かせ、ハンモックを揺する。
「そう、よかった」
 妻のはしゃぐ様子に、サマエルも顔をほころばせた。
 朝昼兼用の食事をとり、二人は、浜辺に並んで座った。、
 昨夜の嵐がまるで嘘のような穏やかな海、足元に波が打ち寄せ、砕ける。
 彼の肩にもたれかかり、ジルは自分の腹部に触れた。
「ね、サマエル……これで、赤ちゃん、出来るのよね?」
 サマエルは眼を伏せた。
「そう、だね、多分……。 でも、本当に……これでよかったのか、な……?」
「え、どうして、そんなこと言うの?」
「生まれた子を愛せるか、自信がなくてね……。 それに、私はインキュバス……関係を持ったが最後、もう抑えは利かない、私は毎晩、いや、暇さえあれば、キミの体を求めてしまうよ。 結果、次々子供を生む羽目になり、キミは疲れ果て、赤ん坊の世話どころではなくなるかも知れない……そうしたら、キミは……」
「待って」
 ジルは、彼の唇に指をあてがい、黙らせた。
「たしかに、あたしも、疲れちゃったりして、起きれないときがあるかも知れないわ。 でも、そのときは、サマエルが、赤ちゃんのお世話をしてくれるんでしょ? 子育てって、母親だけじゃなく、夫婦でやるものじゃない」
「こ、子守り……私が? お乳をあげたり、あやしたり……ああ、とても出来そうにないよ……。 そ、それに、いくら頑張っても、赤ん坊が泣き止まなかったら……? 私は、頭がおかしいのだよ、ひょっとしたら、思い余って、赤ん坊を、手に掛けたりするかも……」
 狼狽(ろうばい)したサマエルは、おろおろと言った。
「大丈夫よ、落ち着いて。 サマエルはそんな人じゃないし、赤ちゃんのお世話だって、慣れればきっと上手になるわ。 ……あ、それに、一人で頑張ることないじゃない、タィフィンがいるもの。 手伝ってもらえばいいのよ、ね?」
 なだめるように、ジルは言う。
「タィフィン……?」
 オウム返しに口にした途端、サマエルの顔は、ぱっと明るくなった。
「そうだ、忘れていたよ、魔界にいた時分、彼女は、子守りをしていたのだ。 面倒見がとてもよくてね、こんなに子供に懐かれているのなら、きっといい使い魔になるだろうと思い、契約したのだった……」
「素敵! ホントは、あたしも、ちょっとだけ心配だったの。 妹や弟のお世話は、一応、やってたんだけど……」
 ジルは、ちょろっと舌を出した。
「……そうか、キミも……」
 ジルも、やはり不安だったのだ。
 彼女の両親や、イナンナの一家を除く親戚もすべて亡くなっており、頼る相手はいないのだから。
(……ああ、私ときたら、何を、おたおたしているのだか。 一家の大黒柱として、しっかりしなければ……!)
 サマエルは、決意を新たにした。
 その後、食事と睡眠以外のほとんどを愛し合って過ごすうち、いつしか、三日が経ち、ジルが言った。
「……ねえ、一回、宿に戻らない? 荷物や、リュイに描いてもらった絵も取りに行かなきゃ。 そして、またここに来ればいいわ」 
「そうだね、戻ろうか。あ、その前に……」
 サマエルは再び、黒い短髪と青い眼、日焼けした肌に姿を変えた。
「……どうかな、この姿……?」
 自信なさげに、前と同じ問いかけを、彼は口にする。
「とってもかっこいいわ、すごくいい……!」
 頬を上気させ、瞳も輝かせて、妻は答えた。
「そう、ありがとう」
 微笑みかけると、ジルはますます赤くなる。
(ああ、何て可愛い……!)
 思わず、サマエルは妻を抱き締め、口づけた。
 そうこうしている間に、太陽は西に傾き始める。
 ジルは、彼の腕の中でもがいた。
「ね、ねえ、サマエルってば、もう出かけないと、日が暮れてしまうわ。 あたしは逃げないし、焦らなくたって、これからたくさん時間はあるのよ」
「……そうだね」
 渋々、サマエルは彼女を解放し、二人は身なりを整えた。
 まだ明るいうちに翼で飛んだりすれば、誰かに見られる恐れがある。
 面倒事は避けたいと思い、彼らは魔法で小舟を出して乗り込み、漕ぎ出した。
 波は穏やかで、小舟は滑るように進んで行く。
「あ、そういえば、シエンヌはどうなったの? あのとき、ばたばたしてたから、よく分からなかったけど……」
 温かい海の水を片手ですくい上げながら、ジルは尋ねた。
「……ああ、彼女ね……」
 櫂(かい)で漕いでいたサマエルは、一瞬、眼が泳ぐも、何気なく答える。
「私としては……考え得る最上の方法で、救ったつもり……なのだけれど」
「そう、よかった!」
 ジルは無邪気に喜んだ。
 少し心が痛んだが、その言葉は彼の本心だった。
 しがらみから解き放たれ自由になったリュイは、今頃は一人、ファイディーに向う船の上……だろうか。
(だが、不自由な身というのも、思ったほど悪くないな……。 こんなことなら、もっと早く……)
 微笑みかけると、妻は、はにかみながらも、極上の笑みを返して来る。
 天にも昇る心地……こんなに幸せでいいのかと、サマエルは思ってしまう。
「あ、見えて来たわよ、あの島よね」
 ジルが島影を指差し、もう着いてしまうのかと、彼は少し心が暗くなる。
 これからも、ずっと一緒にいられると、頭では分かってはいたのだが。
「三日も、何も言わずに留守にしちゃったから、宿のおかみさん、心配してるんじゃないかしら」
「……まあ、嵐で沖に流されて、なかなか帰って来れなかったと言えば……嘘ではないし、ね」
 岸に上がり、街中に入ると、気のせいか、すれ違う人が皆、自分達を見ているようだった。
「……ねぇ、何だか、あたし達、見られてない?」
 ジルはささやく。
「キミではなく、私だろうね……」
 サマエルは、ため息混じりに答えた。
「え、ローブ着て、顔も隠してるのに?」
「この程度では、夢魔の力は隠せないよ……早く宿へ行こう」
 ようやく“おてんば人魚亭”に着くと、おかみが笑顔で迎えてくれた。
「よかったよ、心配してたんだ、連絡も何もないしさ。 リュイが一度訪ねて来てね、お客さん達はもう、戻らないんじゃないかって言ったもんだから」
「ごめんなさい」
「すみませんでした」
 二人は揃って頭を下げた。
「いやいや、そんな、頭を上げとくれ、お客さんなんだよ、お前さん方」
 おかみは、慌てて手を振り回す。
「小舟を借りて沖に出ていたら、急な嵐で沈んでしまって……どうにか泳ぎついた先は無人島で、すぐには帰れなかったんですよ」
「そりゃ大変だったね、でも、ホント、無事でよかった。 あ、そうだ、もし、戻って来たら伝えてくれって、リュイから伝言があったんだっけ。 『人でなしなんて言って悪かった』って……リュイと何かあったのかい?」
「いや、ちょっとした行き違いでね」
「そうかい。 ……実はね、お前さん方がいない間に、いろんなことがあったんだよ。 ええと、何から話そうか……そうそう、まずは、シエンヌのことからだね」
 サマエルはぎくりとしたが、おかみは気づかず、話し続けた。
「彼女、やっと正気に戻ったようなんだけど、代わりに記憶を失くしちまったそうでねぇ。 気の毒に、リュイ、しょげちまってたよ、彼のことも、全然覚えてないんだって……」
「え、可哀想……」
 サマエルは無言でいたが、ジルの視線を、痛いほど感じていた。
「でもね、いい話もあるんだ。 船が沈んで、死んだとばかり思ってたシエンヌの親父さん、生きてたんだよ。 お陰で、シエンヌの母さんは、見違えるように元気になったって」
 ぱっと、ジルも明るい顔になる。
「じゃ、後は、シエンヌの記憶が戻ればいいのね」
「そうさねぇ……。 まあ、どっちにしろ、リュイは、ジェガなんかと結婚しなくてよかったよ、あんな犯罪者一家と関わったら、今頃は大変だったろうからね」
 おかみは眉をしかめ、ジルは小首をかしげた。
「え? 犯罪者一家?」
「そうともさ。そもそも、シエンヌの親父さんの船が沈んだのは、町長……ジェガの父親の仕業だった、ってんだから驚きさね。 ならず者どもを雇って、海賊の仕業に見せかけ、船員を皆殺しに……でも、そん中に、昔、親父さんに世話になった男がいて、ケガした親父さんを死んだことにして、かくまってくれたそうでねぇ……親切はしとくもんさ。 ようやくケガが治って戻って来た親父さんの訴えで、町長はしょっぴかれたってわけ」
「まあ、そうだったの……」
 ジルは、眼を真ん丸くした。
「けど、娘のジェガの方も、父親に負けず劣らずだよ。 邪魔になった元婚約者を、金を積んで殺させて、死体を海に放り込んだって。 前からいい噂は聞かなかったけど、まさか、あそこまでとはねぇ……!」
 身震いしながらおかみが指す壁には、醜くなる前の、ジュガの絵姿が載った手配書が張られていた。
「……たしかに、色々ですね」
 サマエルは、ポツリと言った。
「あ、すまないね、一人でしゃべっちまって。 ずっと無人島にいたんなら、お腹減ってるよねぇ、今、何か元気の出るものを……」
「いえ、食事は、ここに来る前にとりました。 今日はもう休んで、明日、出発しますから」
 女将の提案を断り、サマエルは、逃げるように階段に向かう。
「待って」
 慌てて、ジルはその後を追った。
 部屋に入ると、サマエルは、うつむき加減でベッドに腰掛けた。
「……サマエル、あのね……」
 妻の問いかけに先んじて、彼は言った。
「分かっているよ、どうしてシエンヌの記憶を消したか、だろう?」
「……うん」
 ジルは、こっくりとうなずく。
「……彼女を正気に戻すには、それしかなかったのだよ。 リュイのことまで忘れてしまったのは、気の毒だけれど……。 もし、彼女が神族の血を引いていなければ、忌まわしい記憶だけ抜き取ることも可能だったかも知れないが……私に出来たのは、彼女の記憶をすべて、精気と一緒に吸い取ることだけだった……」
「あ、それで、リュイは怒って、酷いこと言ったのね……?」
「すまない……これが私の出来る、最善の策だったのだ……」
 サマエルは頭を下げた。
「謝らないでってば。サマエルは頑張ってくれたわ。 あの二人なら、もう一度、恋人同士になれるわよ、きっと……」
「そうあって欲しいものだが……」
 口ではそう答えたが、リュイは一人で旅立つべきだと、彼は思っていた。
 シエンヌ母子の面倒を看る必要はもうないのだし、絵画と魔力の制御法を学び、悲劇を繰り返さないためにも。
「それと、ジェガって、酷いことばかりしてたのね……あ、もしかして、サマエルは知ってたの?」
「ああ。水晶球を覗いたら見えたよ、口にしたくないようなものが、たくさんね……」
 サマエルの眼に、暗い光がたゆたう。
「私は、不殺生(ふせっしょう)を信条にしているが、それにしても……。 反省と償(つぐな)いをさせたくて、ジェガの命は取らなかったけれど……。 今頃、彼女は生き地獄を味わっているだろう」
「……ジェガに何をしたの?」
「醜くしたよ、とてつもなくね。 ただし、心の醜さを反映した姿だから、心を入れ替えることが出来れば、元に戻れるのだよ。 同じ術をかけても、キミはまったく変わらないだろう……逆に、美しくなるかも知れないな……」
「嫌よ、そんなの。あたし、この顔がいいわ」
 ジルは自分のほっぺたをつまみ、それから、彼の眼を覗き込んだ。
「でも……、サマエルは、もっと綺麗な人が好き?」
 彼は首を横に振った。
「いや、私も、そのままのキミがいいよ。 それに、私は自分の顔が嫌いだ……術をかけ、もっともっと醜くするべきかな……」
「え、同じ術なら、サマエルは綺麗になると思うけど? あ、そしたら、ドキドキが止まらなくなっちゃうわ、大変。 あたしは好きよ、サマエルの顔。他の全部も、だーい好き!」
 夫の胸に、ジルは飛び込んだ。
 そして、彼らは再び、至福の時を楽しんだ。

       ◇第19回

 ◆∽‥────────────────────────────∽◆

 翌日、宿のおかみから、嵐の季節が到来したため、大型船は一月の間、メリーディアスには寄港しないと聞き、サマエル達は困惑した。
 乗合船にも、ファイディーへの直行便はなく、乗り継いで行くしかない。
 ともかくも、二人は、港に行ってみることにした。
「抱っこされて、飛んで帰るのもアリだけど、二人きりで乗れるお船があったらいいのにね。 ……ほら、あれくらいの」
 ジルが指差す先には、年季の入った小さめの帆船が停泊していた。
「それはいい!」
 サマエルは、思わず声を上げた。
「よし、善は急げだ、あの船の持ち主に聞いてみよう」
「うん!」
 ジルも顔を輝かせた。
 幸い、船主の老人は、古くなった船を手放すことを望んでいた。
 すぐに交渉は成立し、サマエルが代金を支払おうとしたとき、若い女性が奥から出て来て言った。
「ジイちゃん、吹っかけ過ぎだよ、それじゃ、新しい船買えちまうじゃないか。 あんたもお人好しだね、少しは値切りなよ」
「こら、取引に首を突っ込むんじゃない。 装備も全部、つけた上での値段だ、高過ぎやしないわい」
「へーん、そうですかぁ」
 老人は、渋い顔で舌打ちした。
「……ったく。すまんね、うちの孫は生意気で。 船員のあてはあるのかな」
「ああ、私達だけで何とかなりますよ」
 サマエルは答え、荷物を取りに二人で宿へ戻った。
 宿賃を精算し、名残惜しげなおかみに別れを告げて港に戻ると、帆船のそばには、荷物を背負った船主の孫娘がいた。
「あんたら、素人だろ? あたいが乗ってあげるよ、今は嵐の季節だし、ここらの海は、あたいの庭みたいなもんだしさ」
 自信満々に、女性は言った。
「気持ちはありがたいが、大丈夫、嵐には気をつけるよ」
「でも、妹さんには、力仕事は無理だと思うけど?」
 女性は口を尖らす。
「……妹?」
 ジルは眼を見開く。
「彼女は私の妻だ。 悪いが、この船はもう私達の物だし、他の女性を乗せる気はない」
 サマエルはジルの肩を抱き寄せ、きっぱりと言ってのけた。
「えっ、奥さん!?」
 女性は、ぽかんと口を開けた。
「お前、そんなとこで何やってんだ」
 そのとき、元船主の老人がやって来た。
「あ、ジイちゃん……」
「こいつがまた、何か余計なことをしたんかね? 勘弁してやってくれ、悪気はないんじゃが、栄養が胸ばかりに行っちまってな」
「何さ、ふん!」
 孫娘は、ぷいと横を向いた。
「この子が生まれた記念に作った船なんでな、愛着があるんじゃろうよ。 さ、受け取ってくれ、秘蔵のワインじゃ。 船の、新たな旅立ちにな」
 老人は、丸みを帯びたワインの瓶を差し出す。
「ありがとう!」
「頂いていきます」
 礼を言って二人は船に乗り込み、サマエルは船主や孫娘の心から読み取ったやり方で、てきぱきと帆を広げ、ジルはそれを手伝う。
 そうして、船は、元の船主達に見送られて出港した。
 手を振る二人の姿が見えなくなると、サマエルは、船べりにもたれて大きく息を吐いた。
「大丈夫?」
「……ああ。一時はどうなることかと思ったけれど、ね」
 サマエルは、どうにか笑みを浮かべた。
「うん。これで二人きりね」
「……実は、旅行に出る前の占いで、『女難の相』が出てね。 嫌になるほど、よく当たってしまったよ。 でも、これでもう……」
 サマエルは天を仰いだ。
 ジルは眼を見開いた。
「えっ、言ってくれればよかったのに」
「いや、まさか、ここまでとは……」
 嫌な記憶を振り払うように、サマエルは頭を振った。
「それで、ね……一つ、お願いが、あるのだけれど、いいかな……?」
 彼の方から要求を出すのは珍しく、ジルは身を乗り出した。
「何? 何でも言って」
「食物や水は、魔法で出せる……だから、港、というか……どこにも寄らないで、ファイディーに行ける……と思うのだけれど……どうだろう?」
 おずおずと、サマエルは提案した。
「それ、あたしも言おうと思ってたの。 サマエルは、にぎやかなところが苦手でしょ、だから」
「そうか、ありがとう」
 サマエルは妻を抱き寄せた。
 夜になると風が出て来て、波も高くなり始めた。
 島影で錨を下ろし、嵐が過ぎ去るのを待つ間、二人は改めて船を見て回った。
 設備は古くとも、航海にはまったく支障なく、船室は、数人がゆったり寝られる広さがあった。
「でも、縁起がいいわよね、このお船」
 サマエルが出した大きなベッドに腰掛けて、ジルは言った。
「孫の誕生記念に作った船、だからかい?」
「うん。おじいさん、さっきのお金で、また船を作ってあげる気なんでしょ」
「そうだね……ああ、どうせなら、この船も新品に戻そうか。 私達にとっても、新しい門出だし」
「うん! このお船にも、ファイディーまで頑張ってもらわなきゃいけないもんね!」
 ジルの声も弾む。
 そこで、サマエルは魔法を使い、船を復元した。
「わー、綺麗! 木の香りがするわ……素敵!」
 ジルは深呼吸し、真新しくなった船室を見回す。
 結界を張って新しい船を守ると、二人は眠りについた。
 のんびり釣りをし、海鳥に話しかけ、ときにはイルカの群れと泳ぎ、星や太陽の位置で航路を知る……穏やかな日々が続く。
 風任せ、波まかせの船旅は気分を和ませ、ささくれだったサマエルの神経を静め、癒してくれた。
 そうして、二月が経ち、そろそろカミーニ港に着くという頃、またも嵐に遭い、彼らは近くの無人島へ避難した。
 そこには、乗合船らしき先客が停泊していた。
 近づいて行くと、一人の男が甲板に出て来て、カンテラを振り、叫んだ。
「おおい、そっちに医者はいるか! お客のご婦人が、産気づいてしまったんだ!
「私は薬師だ、医術の心得がある!」
 サマエルは、嵐に負けじと叫び返した。
「ありがたい、頼む!」
「あたしも行くわ!」
 三人が乗合船の船室に入って行くと、大きなお腹の赤毛の女性が、ベッドで苦しげな声を上げていた。
「ベッツィー、しっかりしろ!」
 若い男が、女性の手を握って励ましている。
「薬師を連れて来たぞ」
 船の乗務員が声をかけると、男はホッとした顔で頭を下げた。
「お願いします」
「よし、では、まず、お湯を沸かして。 それから、タオルを。出来るだけたくさん欲しい」
「分かった!」
 サマエルの言葉に、乗務員は駆け出した。
「俺も手伝います! ベッツィー、頑張れよ」
 若い男は、妻の手をそっと放して、後を追った。
 代わりにジルが優しく、妊婦の手を取る。
「あたしジル。サマエ……ううん、レシィは、お医者さん顔負けに色んなこと知ってるの、だから、安心してね」
「ありがと、……うっ」
 ベッツィーは、陣痛に身をよじる。
「ちょっと失礼」
 サマエルは毛布をまくり、妊婦の診察を始めた。
「もう破水しているね、子宮口も開いて来ている。 ……奥さんは、初めてのお産かな?」
「え、ええ」
「大丈夫、順調だよ。 少し時間はかかるかも知れないが、初産とはそういうものだからね、心配いらない」
「はい……」
 額に汗を浮かべた妊婦は、うなずく。
“ホントに詳しいのね。赤ちゃん、取り上げたことあるの?”
 ジルが念話で尋ねると、サマエルは、かすかに頭を振った。
“いや。でも、お産に関する本は、たくさん読んだから”
“え? じゃ、難しい顔して読んでたのって……”
“そう。お産……女性の体の変化について、何も知らないから、不安なのかも知れないと思ってね。 それが、こんなところで役立つとは”
 その夜遅く、赤ん坊は無事生まれた。
 大役を果たしたサマエルは、若夫婦だけでなく、船の乗務員や乗客にも感謝された。
 嵐も収まった夜明け前、二人は船に戻った。
「お疲れ様」
 差し出されたカップを受け取り、サマエルは微笑んだ。
「ありがとう」
「頼もしかったわ、サマエル」
「……そうかな」
 照れたように、彼はお茶をすする。
「何だか、少し自信がついたような気がするよ……色々と。 キミのお陰だ、ありがとう」
「ううん、サマエルが頑張ったからよ。 でも、もう着いちゃうのね……もっと、乗ってたかったな」
「……だったら、この船で屋敷まで帰るのはどうかな?」
「あ、魔法使って? 素敵!」
 翌日の深夜、船はカミーニに着いた。
 サマエルは、港には寄らずに川を遡(さかのぼ)り、砂漠にほど近い場所で、船を不可視の結界で覆い、陸に上げた。
 帆は熱い風をはらみ、船は、滑るように砂漠を渡る。
 その様子を見た者がいても、幻覚だと思ったことだろう。
「わあ、すごい、すごい!」
 ジルははしゃぎ、サマエルもいつになく、気分が高揚していた。
 風任せで一週間が経ち、単調な景色に飽き始めた頃。
「何かしら、あれ?」
 ジルが指差す先には、折れた石柱や、建物の土台と思われるものが、紅い砂から顔を出していた。
「昔滅んだ、アグラーヴォ王国の遺跡さ。 ……私が破壊したのだよ」
 サマエルは、物憂(ものう)げに言った。
「ええっ!?」
 妻が驚くと、彼は眼を伏せた。
「……私が怖いかい、ジル」
 彼女は首を横に振った。
「いいえ。でも、なぜ?」
「……壊したといっても、城だけで、人の命は奪っていない。 私を慕ってついて来た人々は、村を築いた……ワルプルギスの山麓(さんろく)にね。 ……ああ、数日でそちらに着くと、タィフィンに知らせておこう」
 サマエルはそう言って、話を打ち切った。
 それを聞いてから、ジルは少し、元気をなくしたようだった。
 彼は、黙っていればよかったと後悔した。
 二日後、山に着き、彼は、ふもとに帆船を隠した。
 村人達は、総出で帰還を祝ってくれた。
 サマエルは、他の街では見せたことがない、くつろいだ表情をし、ジルも、顔なじみの村人と話すうち、帰って来たという実感が湧き始めた。
 そうして、ようやく二人は屋敷に戻って来た。
 懐かしい門をくぐると、透明な使い魔が出迎える。
 ひとまず居間でくつろいでいると、荷物を運び終えたタィフィンが、魔法学院から村宛に届いたという手紙を持って来た。
 ファイディーの建国直後、魔法を教える学校が必要だと、彼が王に進言したことで学院は設立され、その後も少々、運営に関わっていたのだ。
「別れ際、リュイに、学院行きを勧めておいたのだよ。 魔力の制御と、絵の勉強が一緒に出来ると思ってね」
 だが、手紙を開いたサマエルは難しい顔つきになり、文面を読み上げた。
「……つきましては、正式にリュイ・ネスター殿を婿養子に……渋る彼を、ぜひともご説得頂きたく……」
「え!? 彼にはシエンヌがいるのに!」
「ふうむ……彼から経緯を聞いていないのかな。 多分、娘が勝手に熱を上げているのだろうが、入学したての生徒を婿養子にとか、学院長も気が早過ぎる」
「本当。リュイの気持ちも考えないで」
 ジルはぷりぷりしていた。
「彼に女性を近づけないよう、きつく言っておかないと。 それが出来ないなら、彼を村に住まわせ、私が指導するとね。 ともかく、急いで返信しよう」
 彼は返事をしたため、魔法で送った。
 翌朝、ジルは体調を崩した。
 熱はないが、数日前から時々、吐き気があったという。
 長旅の疲れが出たのだろうと、サマエルは精気を送り込んでみたが、効果はない。
 そこで、彼は、地下室から薬酒を持って来るよう言ったが、それに対するタィフィンの答えは、意外なものだった。
「あの、お館様……奥方様は、もしや、ご懐妊(かいにん)では……?」
「えっ!?」
「何だって!?」
 サマエルは急いで、妻の腹部を凝視する。
「……たしかに胎児がいる。よく分かったね」
「おめでとうございます、お館様、奥方様」
 使い魔の声は弾んでいた。
「ありがと、タィフィン。あたし、お母さんになるのね」
 ジルの瞳は輝いたが、腹に触れ、おずおずと尋ねた。
「うれしい? サマエル……」
「もちろんだとも!」
 力強く答える彼の顔も、自然とほころんでいた。


   THE END.